『音楽が沈黙しない齟齬について』

              Musiplの今後の可能性によせて、文=松浦 達

 愚かな人間は沈黙しているのが最もよい。だが、もし、そのことを知ったならば、その人は愚かな人間ではない (トルストイ『断片』より)

 私的に、沈黙に耳を澄ます瞬間が逓減しているように思えます。ヘッドホン、雑踏、誰かの声、家族との会話、少しの自分の時間での沈黙、そこで何を伝えようと思えるかどうか、それは日常の生活をおくるにあたりまして、ほんのささやかなプラス(+)です。

 今や、政治的に黒か白か、で迫られる世の中で、特保関係や烏龍茶だけが「黒」を名乗って、ほぼ一人勝ち(世の中の情報量自体がメタボリック・シンドロームに依拠しているといえますが)というイロニーは現代病なのでしょうか。金満主義としての五輪。天変地異を前の無力感。遠国での日本のサッカー選手の勇壮振りには、WW2後の日本人村(二重包含)にいました「勝ち組」気分になってしまうところもあります。

 この2014年にて「大きい物語」の復活を多くの人たちが期待しているのかといえば、否定は出来ません。

 再確認的に、80年代後半から90年代初頭にてフリッパーズ・ギターや渋谷系が表象しましたニヒリズムは児戯としてのポストモダン的所作と換喩できるとも今は想いますが、それがタイム・リープしてこの10年代にはオンになっているというのも追々語りますとしまして、細部引用、オマージュへの啓蒙以降におきまして、岡崎京子、フィッシュマンズの刹那さと無的な美しさと痛々しさが明滅している横で、兎角、「大きい物語」が台頭してきましたのは90年代です。感覚論としまして、小林よしのり、オウム、宇多田ヒカル、それぞれの立ち位置はその後考証されてゆく訳ですが、サーフィシャルで大味な味の物語群に、メタ的に「何かを言う」を体現しました小沢健二、「何も言わなかった」ことを貫きとおしたコーネリアスと、そして、消失場所からポストモダンの残像は亡霊のように蘇生し、「ねえ 世界がもう目の前にあるようなそんな夜ってないかい?」(サニーデイ・サービス「夜のメロディ」)。

 その「ある」は捏造と複写の果てに、9.11を境にも感じますが、何だか「言いたいことを、手早く言いきった方が勝ち」の時代へシフトして、「大文字の愛や夢や絶望的なぼんやりとした何か」が臆面もなく歌われるようになりました。バンプ・オブ・チキン、ラッドウィンムプスが詰め込んだ言葉数の多さの行間から零れますのは狭い夢想範囲の限定性で、ただ、前者は宇宙へ想いを馳せ、後者はカオティックな君に向けました観念のもがきを音楽的語彙のあえての狭さにサーフさせたといえます。さらに、近年、マキシマム・ザ・ホルモン、サカナクション、クリープハイプ、ユース・ミュージックを担うバンドは数え切れないほど高精度に、私からしましたら、まるで初めから喪うことを懼れていない、そんな無邪気さが響きもします。

 浅野いにおさんや、ゾンビ、ゼロサム、世界の終わり的なモティーフが行き交う「その後」の瀬で、しかし、生きている細胞が躍動しますようにここに現実は立脚します。膨大な匿名の意見群、届かない小さな言葉、いとまを喪った音楽群、関連で拡がる自分の嗜好。イデオロギーとは借り物競争になってしまっているようなところも感じながら、ぼんやりとした不安と欲望の優先順位が明確にもなっています。

 これにはお金を使うけど、他は節約。以前に、あるファースト・フード店でとてもハイ・ブランドな服飾を着ましたまだ20代の女性が粗雑にハンバーガーを食べている姿を見まして、デカダンスと自己保全のアシンメトリーを想いました。

 「見られていなければいい、ということ」―しかし、それをすぐにスマートフォンなりで友人、知己、第三者がピーピング・トム的にカット・アップします。

 「普段はこんなのだよ。」 「みんなでシェアしようよ。」

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  シェアという概則に少し留保しますに、求心的な本質主義やスピリチュアリズム(明るく生きよう、くよくよせずに生きよう)やイメージ優先主義の最果ては“ある種の言葉狩り”を誘引します。何でも言えるようになっていますようで、個々のチョイス次第であるフレーズだけが先走る、それがどこかから呼びよせましたハーメルンの笛吹きにより、「炎上」という言葉に収斂されるのならば、延焼の果ての元ネタはどこにあるのか、考えてしまいます。

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  このMusipl.というサイトは今の段階では、とてもシンプルな様式です。MVに300〜400字のテクストを添えるというもの。アーティストも非常に雑多で、ときに知名度も高いものも交わり、代表の大島さま始め、他のレビュワー、寄稿させて戴いています弊名の着眼点含めまして、バラバラのものをそのまま預託しているといえるでしょう。しかし、音楽とは初めからバラバラで、皆が同じものを聴く必然はないのだと思います。その必然蓋然に替えるために、このサイト上はすっきりとした混沌があります。そこで、でも、あまたのMVや音楽から「なんとなくこれ、気になるな。」という引っかかりがあれば、関連動画、もしくはレンタル、最終的にはCDやレコードを買ってほしいと思っています。そのサイクルの中で小さいながらも市場がまわるからです。市場がまわれば、日常が持ち上がります。通勤、通学、休憩時間に新しい音楽が花を寄せることになります。

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  ここでのMVも、今やデフォルトになりましたYou Tube越しのものですから、一時代前なら、専門チャンネルでしか観られず、ファンならビデオやパッケージものを買って確認できるようなものに多方面から無償でアクセスできるという場所です。何を今さら、ということを踏まえまして、ただ、難しいのは多方面から無償でアクセスできますが、一方向のアクセス選好が条件的に固まってしまうということでもあります。

 例えば、AMAZON他でも経験があるでしょうが、「これを買っている人は以下の商品も買っています。」というリストは見事に、自身の視野の狭さを痛感し、感性を先取りされているような不気味な気持ちにもなります。でも、それさえ前提になっています。

 選択肢は広がり、どんなものでも知ろうとすれば知ることが出来得る中で、その他、知らないものに関してはとことん冷酷になってもいます。

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 Music+(Plus)、今の段階でのこのサイトは「こんな音楽もありますよ。」という小声にプラスして、少しの巷間に仮想的にあります「大きな物語」の解体と違う文脈の物語の再構築をはかろうとしています前夜の前夜です。

 広告媒体もそうですが、取材や長尺記事、多角的にやるべきことはあるでしょうが、それでも、+αに面白味を見られる層が膨らんでいけば、母体たる「音楽」もよりふくよかに芽吹くのではないか、と期待もしています。

2014.1.24.寄稿