倉地久美夫『いいえ、とんでもございません』

                ―現実には必ずしも、適切な歌はそぐわない 文=松浦 達

誰のための歌なのか

 奥田民生がソロとして活動を始めた折、1994年のこと、まだ小室系サウンド、ミスチルなどJ-POPが莫大なセールスをあげていた時期、シングルの「愛のために」はミリオンを越え、そのままの勢いで自身の当時の年齢をぶっきらぼうにつけた翌年のファースト・ソロ・アルバム『29』も売れた。今改めて聴いてみると、高精度というよりは奥田民生というアーティストの素の部分と適度の抜けの良さが共存するキャッチーな作品ではない。「人間」という曲では、「広島の人は 今も僕の事 思い出せるだろうか」と内省気味に呟き、「ハネムーン」では重厚なギターロックに“あなた”を巡る愛憎が赤裸々に綴られる。

 その『29』の中でも、印象深かったのが、「これは歌だ」という身も蓋もないタイトルにして、彼らしいセンスが活かされている曲だった。桑田佳祐は自らの深読みされてしまいがちな歌詩への風潮へのイロニーとして、『たかが歌詩じゃねぇか、こんなもん』というタイトルの詩集を出している。また、ローリング・ストーンズも1974年には多くの実験を経ている過程の真っ最中に、『It’s Only Rock’n Roll』とさり気なく巷間のイメージをかわしてみせた。たかが、と、されど。しかし、その距離を見誤ると、「歌」は届かない。

 なんのための 歌だ これは 誰のための 歌だ これは すごい顔で 声を枯らし イェ~イ ほかに 何も できない (「これは歌だ」、奥田民生)

倉地久美夫が見つめ直す歌

 2011年3月に劇場公開された『庭にお願い』という映画を知っている人はいるだろうか。 『パビリオン山椒魚』、『乱暴と待機』などの作品でも知られる冨永昌敬が監督をし、ある一人のアーティストをフィーチャーしたドキュメンタリー。菊地成孔、外山明、岸野雄一、石橋英子、田口史人という錚々たる面々の参加も話題になったが、あくまで主役は倉地久美夫だった。

 倉地久美夫のキャリアとは、「歌」と「詩」的な何か、芸術への挑戦を続けてきたようなものといえる。1983年の上京から数々のセッション、1987年のアジャ・クレヨンズの結成。その後の福岡と東京の相互を往来する活動の中で、周知の方もいるだろう、ボクシングのリングに見立てたステージにて、2人の朗読するボクサーが交互に自作品について全身を使って朗読し、どちらの声と言葉がより観客に届いたかをジャッジする第二回『詩のボクシング』の全国大会(2002年)で優勝を遂げる。

自由に、フリーキーに

 このたび、〈円盤〉からの2012年の前作『逆さまの新幹線』に続く、〈windbell〉からのリリースとなる最新作『いいえ、とんでもございません』は、彼の強烈な個性と詩的表現がアクチュアルに交叉するのではないか、という好作になっている。前野健太のような赤裸々な存在にポップに受け入れられ、大友良英が嬉々として日曜日の音楽プログラムでノイズ・ミュージック特集をできる瀬に、彼の癖のある歌回し、奇妙なギターの音色は規範のこうある“べき”という枠を軽やかに越える。

 強烈なのが、9曲目に国民的な大ヒット曲たる小田和正「ラブストーリーは突然に」のカバーがあるが、原曲の爽涼さとは無縁に、不協和音と参加メンバーたちの弦楽器やコーラスも不穏に重なり、箍が外れそうな一歩手前で、歌い上げる。個人的に、以下のフレーズを彼が歌うラインの重い情感には打ちのめされた。

 君のためにつばさになる 君を守りつづける やわらかく 君をつつむ あの風になる (「ラブストーリーは突然に」)

 ここまでで、ややこしそうな音楽家だという印象を持ったという方は逆に、このアルバムに参加したメンバーたちを挙げると、興味が湧くかもしれない。

 近年では、ジム・オルークのライヴへの客演、前述の前野健太、または長谷川健一などのアーティストたちの作品への参加で名前を見受ける音楽家、ヴァイオリニストの波多野敦子が今作の弦楽アレンジを全面的にサポートしているということ。これにより、昨今のポスト・クラシカル以降の地平の音楽の持つ優雅なひずみをコンポジションしている。更に、ビィオラの手島絵里子、コントラバスの千葉広樹、そして、コーラスでは、彼らの名前も含みつつ、石橋英子、トンチ、一楽まどか、小玉たまこ、大城真とこれまでになく、多彩な面々が揃っている。

 3曲目の「エリンギの鬼」では、自由に、不可思議な歌詞に彼の奇矯なシャウトに、音域を無視してフリーキーに私情を紡ぐ。“You TubeにUPすると脅されたりした”、“ケーブルテレビの取材をもらった”などの言葉の果てに「そうか、俺はまだ一人じゃない」と最後、正気を確認する。自由に、フリーキーに。5曲目のThe Stranglersのカバー「ゴールデンブラウン」は英語詞にシャンソン風の流麗なものだったり、8曲目の「犬」ではポエトリーリーディングをベースに弦が混じってくる小品だったり、振り幅は一アーティストの一作品を聴いているという実感を越えるようなところがある。


 倉地久美夫『エリンギの鬼』

現実に言葉がそぐわないまま

 過去、レーモン・ルーセルという小説家、詩人がいた。『アフリカの印象』という作品なら日本語翻訳されており、数々の作家が推薦もしているので知っているかもしれない。言葉、表現への配慮がとても高いのみならず、意味の多重性、在り得ないような語の接続で化学反応を起こす方法論を模索した人だった。ルーセルはゆえに、現実と言葉の対応関係に苦しみ、厭い続け、そのあまり、神経を衰弱した。言葉の中に引きこもっている印象も受けるルーセルの作品だが、言葉の外へ安易な逃げ場を求めるのではなく、言葉に動態性をもたせることで、熱量をあげた点は指摘できる。慣習で成り立った言葉からまったくの独立は、言葉と意味の世界をすくなくとも生きるには、理想主義すぎた。また、アナグラムを研究するほどに、言葉は溢れるのではなく、失語気味になる。

 そういう意味で、この倉地久美夫は饒舌でアナグラム的なところもあるが、最終曲にして8分を越える「大沢あつし君」での緊張感とともに高められる音響空間の美しさにこれまでにない、言葉が聞こえてもくる。前衛芸術、アート的であることが小難しく、一般性と乖離したものばかりとは限らない。

 ときには、現実に言葉がそぐわないことを思い知るような際に、彼の新作に触れてみるのも妙案ではないか、と思う。

 
  『いいえ、とんでもございません』倉地久美夫2014年6月6日リリース

   
         
 

2014.5.27.寄稿