脱・国境化、伝承化される「うた」のために、
2014年のくるり

                                  文=松浦 達

 今年のくるりは、再び京都を離れ、新事務所の立ち上げ、東京に軸を置きながら、多様にしてこれまで通りのオルタナティヴな姿勢を崩さずに、日本のロック・シーンのより核心に近い場所から新たに既存の価値観を再定義し、内破してゆくような活動が目立った。過去のくるりの来し方と、多面的に、文化/伝統/音楽を彼らなりに嚥下し、今の感性で研ぎ澄ませた、新作の『The Pier』と、八年目を迎えた京都音楽博覧会に向けては、このmusiplでも連作記事を書かせて戴いたので、また改めて時間があればチェックしてほしいと思う。

くるり『The Pier』巡礼
八年目の京都音楽博覧会、つながる国境
京都音楽博覧会、ライブレポート

 なお、この取材は先日、筆者が参加しているポーランドの音楽メディアであるbeehype用に行なったのだが、一部、岸田繁氏の言葉を引用の上、日本語としてここで掲載しつつ、先日観たライヴで得た印象を含めて、今の彼らを考えたい。

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自然や天気のように、奏でられる音楽として

m:まず、『The Pier』という作品が実際にリリースされてから周囲の反響、ライヴで行なってゆくことで作品そのものへの意識が変わってきたところはありますか?

岸田:生演奏で実際にやってみると、日本語の歌詞とメロディ、つまり歌が浮き彫りになる印象でした。それはまるで民謡のように、メッセージや時代背景よりも具体的な事象、つまり自然や天気、生理現象のようなものにフォーカスされていることのように思います。

m:私が印象的だったのは、“名づけられるのを待っている作品”というよりも聴き手、受け手側の多解釈により、より立体的になってゆく気がしました。多様な要素がアルバムとして構成の中で、曲単体が映えてくるというのも思いましたが、コンセプチュアル・アルバムとしての意味合いは考えていましたか?それこそ、ビートルズの『サージェント・ペパーズ』、のような。

岸田:サージェント・ペパーズは、ビートルズファンの私にとって、なくてはならない作品の一つですが、同時に、そのスタンスの特異さやバンド内の複雑な人間関係を想起させるプログレッシブな作品だなぁと、齢を取るごとに思います。彼らが、思った通りのコンセプトアルバムを作ったかと言うと、またそれは違う話なような気がしてならないのです。

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 なお、このたび、9月にリリースされたアルバムのツアー「金の玉、ふたつ」のファイナルである12月2日(火)の大阪、オリックス劇場にお邪魔させて戴いた。当日は荒天だったのもあり、出先から会場に向かうまでに少し足止めをくらったのもあり、最初から観ることができた訳ではなかったが、上記の岸田氏の言葉のように、『The Pier』とは(思った通りの)コンセプトアルバムではなく、実に自由で豊潤な可塑性を持つアルバムだったことを感じることができた。

 今年の京都音楽博覧会で観たときはやはり、セットリストと環境、それまでの流れに依拠しており、それはそれで美しい響きを帯びていたのかもしれないがしかし、ワンマン・ライヴで聴く『The Pier』の曲群はもっと、自由でそれぞれが単曲で自在に色彩を醸していた。これまで何度も様々なフォーマットでのくるりのライヴを観てきている中で、今回のライヴはこれまでに感じたことのない眩さもあった。例えば、“蓄光石”のような、太陽光、人工照明(という暗喩的な記号)をこれまでのキャリアとともに、受け止めながら、発光する、そんな―。無論、永続的に光を溜め込んでいる訳ではないのだが、蓄光発光セラミックスは昼間の太陽光や蛍光灯の紫外線を吸収して、半永久的に蓄光と発光を繰り返す。

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向こう側と、こちら側の間で

 旅というモティーフがステージ上には散見しつつ、新作の柔らかい光に感情がほぐされる合間に「ハイウェイ」、「ブレーメン」、「かごの中のジョニー」、「東京」、「ばらの花」などの過去曲もまっさらな気持ちで対峙できる、そんな想いもよぎった。

 そして、個人的に、楽しみにしていた「遥かなるリスボン」はライヴではよりあの曲の包含するサウダージが滲み、捉えきれない郷愁の果てにいつかに行った、リスボンのアルファマのこみいった路地やバイロのバーで聞いたファド、そこでアーティストから買ったカセットテープを想い出したりした。あの街も穏やかな港湾都市のようで西ヨーロッパの中でも艱難な歴史と深みを持ちながら、1755年のリスボン地震では大きく傷つき、長い時間を掛けて再興していった。なので、今でもあちこちでその爪痕が残っているところもある複雑さもある。それでも、人の穏やかさ、市場の賑わいには自身は元来の日本にどこか近い、「生活」そのものの遅さを噛み締める温度を感じたりもする。

 補記までに、このツアーは、メンバーの三人以外に、今回のサポートは奥野真哉(key)、福田洋子(dr)、松本大樹(g)、権藤知彦(ユーフォニウム、フリューゲルホルン、マニピュレーター)の七人編成であり、名うてのミュージシャンが自在に楽器を用い、ライヴならではのインプロヴィゼーション、ジャム的な展開が挟まれるのも愉しかった。くるりのライヴはいつも、余白に意味を感じることが多い。例えば、印象的な「東京」のイントロが鳴るときの鼓動とともに、最後に佐藤氏のハーモニーも重なる終わりの中で、フラッシュバックする情景を感じた人も少なくないように。

 決まった音源越しだけでは伝わらない“一回性の、閃き”がライヴという場ではオーディエンスは個々、それぞれに染み渡り、呼応してゆく。本編中、近くの若い女性客が「ばらの花」で、タオルで涙を拭っているのを観たときに、『The Pier』とは過去のくるり、未来のこれからのくるりを繋ぎ、伝承する結い目となる作品であったのかもしれない、とさえ思った。桟橋からまた彼らは新しい、向こう側の道へ行くのだろうが、ライヴで観る彼らは桟橋からしっかりこちら側に向けて、「安心な僕らは旅に出ようぜ」と、とても優しい視線もあった。

 日々過ぎゆく中での感情の揺らぎ、ほんのささやかな人間同士のほつれ、季節の変化など切なさと、慕情、それらを仮構化するのではなく、世界中の民族的な多様性と付随した歴史連関性に耳を澄ませ、くるりとしての音にしてまた、孤立しないよう、歌い継がれる「うた」に変えてゆく意義―そういったところにますます自覚的になっている気がした。その「うた」は岸田氏が言う「民謡」のような何か、かもしれない。

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違いがあって、当たり前なこと

m:くるりの音楽は、同時代性がありながら、絶妙にカウンター的でもあったと思うのですが、『THE PIER』は音楽の可能性を広げるだけでなく、ポリティカル・コレクトネスのような社会的偏見へのカウンターをも想起しました。このように聴き手側の解釈しだいで、より立体的になるアルバムに思えます。多様な要素がアルバムに詰め込まれることで、一つ一つの曲がより映えるようです。“遊び”の部分も含めて、それぞれの曲により強度があり、世の趨勢への反射鏡としての役割を担っている。本作を通してそう感じます。こういった解釈はどう思われますか?

岸田:当たり前に思われていることには常にカウンターが産まれ、ミイラ取りがミイラになる、といった事象を目の当たりにします。物事はバランスだと思いますし、普段は何事も丸く収めて生きていたいと思っています 笑。ただ、カウンターのカウンター、そのまたカウンターで有り続けることが、創作の意欲にもなりますし、この時代を生き抜く術だとも思っています。社会的偏見、というものについての考えが固有のものとして注目を浴びたり、ファッション化することについては、強い違和感を覚えます。ひとつひとつは違いがあって当たり前だと思っています。

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 今は「同調圧力」というテーゼが無意識にでもプリンティングされているような気がする。例えば、Twitterで膨大なRT数のTweetが巡ってきて、思わず、それをRTした経験はないだろうか。もっともらしい意見は、確かに「もっともらしく」、正論はやはり正論でしかないフォルムを帯びている。しかし、自身の中で思考して判断するまでには過程がある。過程のまま、判断ができないこともあれば、判断をしてからその過程を思い返すのもあるだろう。しかし、“大きな声”が響くのは一瞬で、例えば、ボブ・ディランは「The Times They Are A-Chagin’」という曲でこう歌っている。一部、歌詞を引用したい。

   Come mothers and fathers
   Throughout the land And don't criticize
   What you can't understand
   Your sons and your daughters
   Are beyond your command
   Your old road is Rapidly agin'.
   Please get out of the new one If you can't lend your hand
   For the times they are a-changin'.

   国中のお母さん、お父さん、
   理解できないことは無理に批評しなくてもいいよ
   あなたの息子や娘さんは
   あなたの思い通りにはならないわけだし
   昔どおりの道は急に消えつつある
   どうか新しい何かを邪魔せずに
   もし手を差しのべることができなくてもいいから
   時代が変わりつつある中なんだから(筆者拙訳)


Bob Dylan「The Times They Are A Changin'」


囚われず歌える、うた

 そして、まだまだライヴや、イヴェントへの参加が続きながら、リカット・シングル「There is (always light)/Liberty & Gravity」、チオビタ・ドリンクのCMソングとして使用された楽曲を集めた『くるりとチオビタ』という企画アルバムもリリースされる。前者には、同年代の戦友ともいえるかもしれない元SUPERCARの中村弘二のNew Mixや気鋭のアーティストMadeggのRemixも含め、興味深い試みがある。思えば、「ロックンロールハネムーン」のtofubeatsのRemixも原曲の形質をなぞりながら、ある程度の型の決まったリミックスではなく、ダンス・ミュージックとしてまた新しい躍動感を持っていた。90年代にはよく、様々なダンス・ミュージックには、B面にExtended (Re)Mixなどがざっくり入っていたのをおぼえているが、現在ではトラックへの解釈の幅がどんどん原曲に対して敬意は勿論あった上で、過度の「囚われ」がないゆえに、フラットに聴けるものが増えているのを感じる。くるりも、くるりに「囚われ」すぎることがなく、今年を精力的に駆け抜けてきた。きっと、それは多くの人があらゆることの中で忘れていた“うた”を今一度、再蘇生させてゆくのではないか、と思う。

 ブレーメン 外は青い空 落雷の跡にばらが咲き 散り散りになった人は皆 ぜんまいを巻いては歌い出す (「ブレーメン」)

 峻厳たる世の中でこそ、ある一定の観念に囚われず、ばらばらに、皆は想い出したかのようにうたを歌い出す、としたならば、静かに白黒の景色も巻き戻される、そんな想いすら募ってならない。元通りにはならない情景だとしても、何らかの形で伝承されてゆくのは悪くない。

 最後に、岸田氏が絶賛していたアルメニア出身のピアニスト、ティグラン・ハマシアンの音から零れてくる「声」に意識をひそめていると、自然と今記事の表題のような感情が喚起されたのもまったくの蓋然ではないと信じて、くるりのこれからに託す想いは尽きない。


Tigran Hamasyan『The Poet』


2014.12.7.寄稿
協力:乾 和代(ki-ft