憶えていられる場を再形成するために

〜musipl.com 500レビュー突破によせて〜 文=松浦 達

1)

 近年に於いて、「忘れられる権利」についてネット上で議論が喧しい。先日、3月30日にも、ヤフーは検索結果の内容の多寡に基づく削除依頼について対応方針はアナウンスしたが、「忘れられる権利」とは何か、というと、インターネット上に残ってしまった(不利益な)個人情報を巡る問題であり、ただ、勿論、「知る権利」、「表現の自由」といった概念と拮抗もしている。“炎上”という言葉もあるが、ふとしたTwitterなどSNSでの一言が本人の意図を越えて、ときに誤解釈が為されたり、また、一つの個人的見解のレベルを抜け、社会問題にさえなってしまうことは増えた。匿名の悪意の束は加速しているのは言わずもがなで。

 それでも、テクノロジーの発展はとても快適に、世界を繋ぐ。通信速度が落ちると、ストレスを感じるほどに国境があっても、ないかのようにスムースに。ただ、エドワード・スノーデンが警告するみたく、公開されている情報はほんの一部で、大量監視されている状況にナイーヴになることも大いに必要になってくる。


 

参考) RADIOHEAD『Fitter,Happier』

 


2)

 データ・サーバー上とはいえ、管理者の居なくなったホーム・ページ、ブログなどは「放置」されたまま、世界中に点在し、ちょっとのことでは「消えない」。誤って写真投稿サイトにアップロードした写真は当事者が消しても、第三者が復元・流通させる。そして、話題のトピックがあれば、誰もが即座に共有し、即座に意見交換し合ったり、「何かを云おうとできる」。情報量に依存しない限り、情報の目捌きするためには多少のそういった負の速度も受け止めていかないといけないケースも多いが、閉じられた共同体の中から不穏な芽が芽吹く温床になっている事態も枚挙にいとまがない。更には、政治的、社会的発言の不用意さも増えてきているのは、一時の言葉狩りの反動ではなく、言葉のインフレ化が強くなっている前景がある。どことなく、議論を交わし合う場としてネットという場が持っていた暗黙の節度の箍が外れると、理論より感情論がときに「大きい声」になってしまう。大きければいいのか、というともちろん、違う。大きく響く言葉には空洞性が必然的に帯同してくるからでもある。


3)

 さて、このmusipl.comも500レビューを越え、じわじわとながら、多彩な記事、コンテンツ、新規レビュワーの方々が増え、厚みが増してきた。筆者も途中から関わらせて戴きつつ、他の音楽サイトとの差異やここでしかできないものを思索しながら、大島編集長とときに話をしていたのは「続けてゆく」ということだった。ゆえに、初期のコンセプトのように、“まだあまり知られていないアーティストを紹介する“ばかりではなく、それでいて、他にあるようなファッショナブルでややペダンチックなクールなサイトとは言い難いところはあったとしても、人肌通ういい意味でのアナログ感も保持し、それは強みになってきたのだと思う。だからこそ、対面のトーク・イベントやウェブを飛び出してのものも、というのも一環としてこれから進められてゆくと思う。

 冒頭に挙げた「忘れられる権利」とともに、「忘れないでいる義務」も人にはあるべきだと感じる。今、生きている人たちの瞬間の息吹が共有される幅が大きいほど、承認欲求が満たされるかもしれずとも、伝えたい言葉をまさにその瞬間に賭けている人もいる。同じような言葉が並んでも、発信者によっては対象に向けてのアティチュードが180度、違っていたりする。それは行間を読めば分かるものの、受け手のリテラシー性を沿うところの意味がより肥大もしてきたのも事実だろう。脊髄反射のようにYESかNOですぐに気分的な決断を出すのではなく、知性としての導路下で、多面的な要素を並列して考えないといけないことも多々ある。そこで、憶えている、忘れないでいられることを話し、紡いでいく「個」そのもののレゾンデートルへの負荷量の責務は高まってゆくと思う。知らないことは知る必要がない、では、歴史は強者によって幾らでも改ざんされる。ただ、正史が本当に「正しい」のかは別だが、語り部が残す生々しい言葉をベースに新しい磁場ができればいいのだろうし、そこで気付きや新たな発想を得る人が少しでもいれば、その少しの中で新しい熱量が生まれていく可能性も否定できない。

 迫りくる現状をリアルに真摯にネガティヴに捉えてしまうと、元来は意味をしっかりあったはずの希望、未来、そんな概念さえ記号化し、「なかったこと」にされてしまう憂慮さえ誘導されやすくなっているのは自明として。


4)

 音楽、そして、音楽を作るひと、音楽を作るひとをサポートするひと、音楽を聴くひと、音楽を語るひと、音楽を感じるひと、それらはバラバラのままではなく、個を通じながらも、「文化」のなかで多様な価値観さえも受け止められ、混ざり合う。

 同じ方向に、同じ歩幅で向かってゆくのは悪くはなくても、知ることで、歩幅が変わることはあるかもしれない。日めくりカレンダーをめくるときに思わぬ季語、古典の言葉を知ることがあるように、このmusipl.comには派手さやドラスティックな仕掛け、企画より、訪れた人たちに柔らかい風が吹き、過剰に何かをせっつくような場所ではなく、よりそれは進んでゆくような気がしている。あくまで、筆者の考えだが、カウンターとして始まったメディアがゆえに。

 最後になるが、インフルエンサーの採点、評価が高い店(、もの)が万人に美味しく(、優しく)なかったり、旧来の伝統の型枠に寄りかかって、質が落ちてしまったミュージアムがあったり、数か国語で埋め尽くされた観光地があったり、寧ろ、完全なる沈黙が金だったりする中、固定既成概念に過度に「囚われ、振り回されすぎずに」、自分の嗜好、センスとは合わないものかもしれずとも、「合わせてゆく」ことで、フィットすることもある。制服やスーツが馴染むように。

 だから、ささやかに願う。僅かでも、忙しない日々に寄り添うような音楽、言葉、想いがここで交叉し、いつか各々の記憶と重なり、まったく忘れてしまうのではなく、憶えておいてもいいなぁ、くらいの感覚が連なっていけば、繋がる道は捨てたものじゃないのでは、と。いつでも、自分とは無関係な蚊帳の外、外部ばかりが賑やかな訳じゃなく。


        歩み寄るべきだ なんて思わないだろ?
        探してる物は僕らの中で騒いでる (「TRIP DANCER」,the pillows)

 

the pillows「TRIP DANCER」

 


2015.4.6.寄稿