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ホリケイコ―聴こえ正される、自然の音息

〜遠心性を持つ故郷に沿う普遍たる慕情〜 文=松浦 達

序文)

 『万葉集』の叙情性とは、大和、すなわち奈良という土地の盆地たる地理条件と生活様式に根差した日々のささやかな声の色彩の織り合わせのような気がすることがある。“万葉びと”は山々に囲まれて暮らす人たちの持って生まれた山を越えたら、郷愁に焦がれる、そんな仮初めの約束に穿つ四季の厳かな自然、生物のノイズが醸す行間に魅せられるゆえに、今も読み継がれるのかもしれない。 大阪の地を、そして、おおよそ十か月前の手記を読めば瞭然だが、老いた父母を置き、奈良の天川村に移住したアーティストが居る。彼女の名前はホリケイコ、ピアニスト、サウンド・コンポーザーとして多方面で活躍している。

 地方への移住問わず、都市生活の利便性を離れ、ある種の僻地に身を置くのは相当の覚悟以上のものがある。余りある自然や人の優しさに触れることだけではなく、生活してゆくには命そのものが試され、同時に、過疎化、高齢化が進んだ地域では社会保障から税金までの負荷は降りてくる。消滅可能する”かもしれない”市町村などが近年、話題になるが、消滅を可能にしているのはそこに住んでいた人たちの責任でも何でもない。既存のシステム・サステナビリティとしての浸透圧が行き届かないまま、いつかの開発計画が投げ出されたまま放置され、70年代の高度経済成長期の残映が寂れた看板や空き家を照らしている「大きな文字」が個別の心理に落ちていく経緯を辿っているからと言えるかもしれない。

 裏を返せば、どんな場でも長生きする、長生きできることは悪でもなく、「長生きが可能な社会は成熟化していて、悪いわけではない」。成熟化した社会を受け止めて、相応の自負で斜陽の島国たる日本の有様を受容していかないといけない潜在心理は生まれているものの、まだ、鎖国的な極端な何か、か、グローバリズムの中で光る日本の良さか、の二軸だったりする。そうではなくとも、知識武装するための先ごろの夏に迎えた戦後70年とは奇蹟的な時間だったということは認知可能かもしれない。無論、そんな時間を枠外に置くことなく、今、たおやかに性別も年齢も関係なく、誰かの寝息を子守唄のように聴くように音楽と対峙するのは難しいことなのか、文化的に寛大な自然的な意味過程が問われている錯視もおぼえる。


 

ホリケイコ KEIKO HORI / Where Are You Going? (MV)

 

 彼女が発表した2014年の『TENKAWA』は、天川村にインスパイアされた音像が時制詞をあえて省くようにさざめいている。虫の音、空気の振動に微かに動く気配などのフィールド・レコーディングにブライアン・イーノの諸作を思わせるアンビエント・ミュージック、環境音楽の素子、影響を忍ばせ、近年、再評価の瀬にあるエリック・サティのようなピアノの優麗で抑制的なタッチが風景を点描し直す良作である。ポスト・クラシカル、オルタナティヴ・アンビエントの系譜を汲むというより、時おりのブレイクビーツの粗い肌理からファンクネス、フュージョン的なノリからポスト・イージーリスニングへの架橋の過程生成を含みとして感じもするが、イージーリスニングというカテゴライズそのものが何らかの一定のバイアスを生んでしまうからして、和/洋、有機/無機のエクレクティックな軋みを運んでいると評した方がいいかもしれない。なお、私的に不意に想い出すのは、マイケル・ナイマン、テリー・ライリー、ラ・モンテ・ヤング、オーラヴル・アルナルズ、アンナ・ローズ・カーターなどのサウンド・テクスチュアの還流と時空を越えた接見。要は、伝統、歴史への啓蒙と確かな脈絡は巡っているということ。歴史は、ショートカットされていないということ。無論、その名前のあいだにはあまたの不世出のアーティストの様、音への敬意を表したうえで、ここからさらに広がる想像力を試される音楽として差異は執拗な反復を促さない。

 

ホリケイコ ファーストアルバム TENKAWA 全曲ダイジェスト

 

 「天川村(“Tenkawa”)」、「どんなときでも家に帰られる(“Coming Home Anytime“)」という示唆深い曲名が示すように、今、誰かにとっての異郷が誰かにとって、これからの故郷になり得る可能性は大いにある。そして、慚愧なことに逆も然り。昨今でも、遠きドイツを目指した膨大な難民の人たちの中では忘れられないわらべ歌の数々もあるだろうし、天災、人災に会われて遠地で暮らす人たちはラジオから流れるいつかの歌に涙を流すこともあるだろう。でも、それでいいのだと思うときもある。個々の思うままに行き着いた場がひとつの家を作りあげ、少しのコミュニティを生み、元々あった家の声を聞き継ぎ、細々と小さなつながりが残る。いずれなくなるかもしれなくても、その営為に無為性はないと思う。

 近く、天川村というリアルな場所におけるリポート、および今の声を届けたいと思っている。



   
         
 

2015.9.14.寄稿