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スガシカオ『THE LAST』

  〜奪われない人称性と、新しい朝を買いに行く方法論〜 文=松浦 達

今日のホルマリン漬けの向こう

 しかし、『THE LAST』はとても聴きやすく、それでいて、どうにも実存の慣性の居心地が悪くなる感じも同時に沸き起こさせる。それは長年のキャリアを重ねたからこそのサウンド・メイクの巧みさや毒味を持った言葉をサラッと歌ってもすぐに、“そのまま”に感性の襞をなぞられるのではなく、じわじわと心身に累積する反転性に依拠するからかもしれない。フリーキーなファンクから、過去の「あまい果実」や「アイタイ」でも見せていたような、マッドで妄執のような想いが「あなた」を巡り、恋慕の深奥でとぐろを巻くセクシャルな「あなたひとりだけ 幸せになることは 許されないのよ」、ミディアム・テンポの優しくハネる「海賊と黒い海」、ロマンティックなモティーフがサイバーパンク調に弾ける「おれ、やっぱ月に帰るわ」と前半の五曲ほどを聴いていても、サンドペーパーみたいな質感が、聴覚を補整する、そんな痛快さと、投げっ放しではない、じんわり人間誰しもがどこかに心当たりあるだろう闇や負性に柔らかくぬめりと触れてくる。ボロボロになり、悪態をつき、落ち込み、ただ、この作品における基調はあくまで「明日」を向きながら―

 明日のことを考える余裕などない切迫した状態だったとしても、行間や照れ隠しで濁してきたような、「明日の世界へ舵を」というアティチュードがこれまで以上に絵空事ではなく、真摯に心を打つ。それは、既発曲では、「アストライド」が唯一にして、軸を担い、入っているゆえに、ジャケットもUFOキャッチャーの中の女の子、物憂くシビアな顔でこっちを見ている彼と、ミクロで雑然とした狭い室内にマクロな宇宙大の願望への拡がりが詰め込まれているようで、彼がこれまで密室の中でただ身体をいじり合って、無傷で今日を乗り越えられたらいい、という感覚はより鋭敏に具象的なフレーズに還元され、他者性、セカイへの絶望、憎悪的な何かが充溢しつつ、抽象的に受容する「誰も」の青春のホルマリン漬けの香りを思い起こさせ、ほんの少し、やり直しのための勇気が恥ずかしくないことがうまく連環しているからかもしれない。

   なんでなんで ぼくらはいつも    どうして うまくいかないことばかり
   それがぼくたちの かけがえない明日になるんだ(「アストライド」)

 

スガシカオ「アストライド」

 


新しい朝を自販機に買いに行くために

 筆者が1995年に彼の「やがて」という曲をFMで聴いてから、もう20年以上が過ぎ、シーンの激変もさることながら、おおくの声なき死者を弔い、文化の変わり目を越え、それでも、生きた者は相応の痛みを負い、現時点で未来は断じて誰もに拓かれた、とは言い難く、よりダークな様相もある。それでも、周知のように、プリンス、ディアンジェロ、岡村靖幸、彼の昔から敬愛するアーティストもそれぞれにアクションを起こしはじめ、サヴァイヴし、後進にも今の世代にも影響を与えているのは頼もしい。

 「前人未到のハイジャンプ」を目指した彼は隣人が誰かわからない、物騒な午後のパレードを抜け、この今、50歳までに集大成となるアルバムを、という言に添い、漆黒のブルーズで空を塗り潰すのではなく、虹を創ろうとする。悲しいほどの歯抜けたオプティミズムと、底が深すぎるペシミズムの双方に与することなく、徹底的に個に降りた文法を組み直し、「みんなのなかの、あなた」に向けて捧げられた雰囲気は大仰でもなく、涙腺に刺さるとともに、スガシカオというアーティストの執念に感動する。

   明日が来るなら…   君と風を待とう
   自販機にほら     朝を買いに行こう  (「ごめんねセンチメンタル」)

 新しい朝は、平等に来る。


   
           
 

 

 
 

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2016.1.15.寄稿