羊毛とおはな『明日は、』 Next Plus SongPassion Pit『Lifted Up (1985)』

ゲスの極み乙女。
『私以外私じゃないの』

 「私」という記号は、私をそのまま意味するが、実際、「私(わたし)」という発語した途端に、関係性として成立するのかというと、少しの疑念も必然的に生まれてしまう。何故ならば、代理的な存在の主体性としての「私」に負荷をかけるには“欠如した主体”が多く散見される瀬では私以外の、誰かの代替物になり得ないかという含みが出てくるのもあるからでもある。

 今の日本の音楽シーンで重要なポジションを占める、ゲスの極み乙女。は「私以外私じゃないの」という“当たり前のこと”を立証し、集約させるために、川谷絵音が取材でも答えているように、アレンジメントの機微、ギター・フレーズからベース・ライン、ハーモニーなど拘り、以前のような突飛な異物性より、流麗で多くの人の耳に届くだろう中心部(Center)に向けた文脈が敷かれている。そして、意味/イメージで二分化された側面を解析するにはこの曲自体からは過度なまでに「意味」が伝わってくる。フランスの精神分析家のラカンの「想像界」という概念に倣わずとも、この「意味」はダイレクトにかつメカニカルに、響く。しかし、イメージ枠として捉えたら、実体がないような言葉の連続性はむしろ、暗黙なき、予前たる空虚性をシェアする最大効率性を確保するのかもしれない。このMVの下には多くのリスナーのコメントが次々と寄せられている。ただの感想もあれば、批評的なものまで位相の違うものが連なっている。しかし、その位相の違う連なりを四分間で飲み込んでいる“速さ”があるのは事実だろう。

 私、以外の私の言葉はそうじゃない、としたら、その私以外のあなたの言葉はどこに向かうのか、というと、この四分間で解けてしまう難解な数式を欲望する認証印はどこを流転するのだろうか。能楽堂、歌舞伎のメイクをした女性がその鍵となる残影をちらつかせながら、この時代で“欲望が「私」をする”というのはこうも拗れた硬直した構造が現実に「介入」しないといけないというのは考えさせられる。
(2015.4.14) (レビュアー:松浦 達(まつうら さとる))
 


   
         
 


 
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