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星野源
『POP VIRUS』

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 年明けの或る病院で「インフルエンザなんてなくなってしまえばいいのに。」と小さい子供が母親に言っていた。ほんの少しだけ文脈が欲しくなる瀬に。ほんの少しばかり、を自在に行き交う星野源の巨大さと器用さは心配になるほどで、ユーモアと、現代に於けるディストピアとメランコリア、ときにファニーなくだらなさへの処方箋を一手に抱え込む存在に「なってしまった」一人で、相変わらず、ラジオで、テレビで、音楽で、解説で、パスティーシュで彼は星野源で在り続ける。そして評価経済と、価値経済の対軸を抜きに、真ん中の傍らを射抜く。そう、ポップ・ウイルスなんてかの世界的レジェンドにして彼も敬愛するマイケル・ジャクソンも迂回していたような題名のアルバムを日本でしっかり届けて、さらには世界からも注視されている。

 『Yellow Dancer』からより進んだ今に、新たな盟友STUTSのビートメイクを要所に取り入れた揺れの中で、彼は芳しくないニュースばかりの瀬に一拍の永遠と愛に近い何かをバウンスする。「恋」、「Family Song」(、「ドラえもん」)、「アイデア」の流れで大きくなったというより、エントロピーをクレイジーキャッツ的なものやYMO的なものに合わせていった気さえするそのテンポに宿る唄は誰もが「歌える」唄ではなく、どこかでどこにも流れている唄になっていった気がする。思えば、「Family Song」のリリース前後は大きなトラック・カーが某大都市の中心を練り歩いていた、それも2017年の夏。そして、平成も終わりゆく。星野源が象徴した日本のある種のサブ・カルチャー、ポップ・シーンはしかし、彼にしか背負えなかった証左と寂寥もある。コントロール・フリークな部分とニセ明、おげんさんなど含め、インプロで外れる部分とが多才な彼を消費してゆく巨大な消費者の係数を思うほどに。そして、ドーム公演へ、彼は更に巨大化する、誰もの、誰かの中で、そうではない人たち以外には何かと示唆も受けながら。10年代の後半を見事に彩った存在として星野源の存在は大き過ぎる。含みや皮肉も抜きに。あちこちでハードなことが多すぎた事象の内部で、外部から、彼はトリッキーに、ファニーに笑みと元気を書き起こしたのは事実だろう。

 しかし、今年のインフルエンザの形質が変わり膨れ上がるように、星野源の意味合いはまた変わってきているのも感じる。落書きだらけの地下鉄で、あなたに歌いかけるようで、あなたは今どこにいるのだろうか、という疑念を対象化したうえで、サングラス越しに見える視界に映るのはもしかしたら、他者性ではなく、ヒトたる多様な蠢きなのかもしれない。それくらいに星野源は、今、限定しない誰かの、何処かの心臓を目指している。その覚悟は美しいのか悲愴なのかはわからない。でも、彼にしかできないことかもしれないとも思う。

 最後に、彼の声や詩はいつまでも弾き語るままで、演出が派手に、サウンドメイクが変わろうが、彼自身の想いはいつも独りきりで内奧のままに他者へ手を差し伸べているのは変わらないのは想う。それがゆえに、まだ星野源の内部性はいつまでも無防備に関わらず、受け手の心臓を掴む。こういったことも野暮なくらいになるほどに今の日本のカルチャー・シーンに彼はもう欠かせなくなったのはコンセンサスとして。平成の次に。くだらなさとバラバラな未来の先に。
(2019.2.23) (レビュアー:松浦 達(まつうら さとる))
 


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