京都音楽博覧会、ライブレポート

                                  文=松浦 達

 では、序文に続きまして、京都音楽博覧会についてのライヴ・レポートを。詳細なる感想や曲目などは他のメディアや個々で綴られてゆくと思いますので、ここではある種、独自のアングルから進めていきたいと思っておりますのは御配慮ください。

 なお、例年どおり開催当日に発表されましたタイム・テーブルは以下の通りです。

   10:30 開場
   11:30 サラーム海上の音楽遊覧飛行
   12:10 トミ・レブレロ
   12:45 サラーム海上の音楽遊覧飛行
   12:55 ヤスミン・ハムダン
   13:45 サム・リー
   14:10 tofubeats
   15:10 椎名林檎
   16:25 ペンギン・カフェ
   17:45 くるり

 サラーム海上氏のDJを挟みながらの世界の気鋭が並ぶ前半、ビッグ・ネームが並ぶ後半。簡易にはそう分けられるかもしれませんが、あとに記しますように“分断”がなかったのが印象的でした。

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 筆者は午前中に会場に入り、まず、12時台の暑い時間帯にTomi Lebrero(トミ・レブレロ)を観ました。彼は過去、来日もしておりますし、多彩なプロジェクトに関わっても居ます。かのアルゼンチン・タンゴのモダニストRodolfo Mederos(ロドルフォ・メデーロス)に師事し、バンドネオン奏者としての腕も確かながら、プロデューサー、コンポーザーとしての側面もあり、常に新しい試みを行なっているアーティストです。彼の野太くも、惹きつけられる声、そこにサポート・ミュージシャンのアレックス・ムサトフのヴァオリンが重なってきますと、哀愁と慕情を備えた、フォルクローレと今そのものの温度を結うような豊潤な音からはイマジネーションを刺激されるものがあります。

 なお、彼は、ブエノスアイレスの文教地区たるパレルモを中心に活動をしていますが、パレルモとは若い学生から知的なアーティスト、クリエイター、多くの人たちが行き交う“サロン”のような場所で、今年の京都音楽博覧会の通底にはサロン・カルチャーが脈打つような気がしましたのも、バック・ステージでのペンギン・カフェのArthur Jeffes(アーサー・ジェフス)とSam Lee(サム・リー)が歓談していましたが、筆者も少し間に入りも致しますと、より感じたからかもしれません。

 しかし、だからといいましても、決してサロンとは、ハイブロウで高尚に小難しいというわけではなく、世界中のアーティストが音楽を通じて、濃密に対話される感覚が例年にも増して、京都音楽博覧会の名の下にあったと思えたからです。トミは、始まったばかりの場をじわじわあたためていきましたが、その中で、ファットな打ち込みが響く中、歌われました「松尾芭蕉(Matsuo Basho)」では、思わぬ「マツオバショウ」という日本語の響きで、観客の中からは笑みが浮かんでいましたが、至って真面目な曲です。彼なりの松尾芭蕉への真剣な解釈が込められたもの。歌詞にしましても、〈旅装束のあなたは日本中を旅して歩く 今朝 僕は精神の細道を行く 旅人の芭蕉に想いを馳せて目を覚ました〉と始まり、松尾芭蕉の存在を通じて、彼なりの思察が入ります。俳句は、自然の美や知的遊戯を掘り下げるべきではないこと。生活そのもの、寒さ、飢えと関係性のない句は本当の句ではないと知っていたのではないだろうか、ということ。そして、過剰で大げさな表現とは別に奥の細道を進む松尾芭蕉へのトミの強い感情が迫ってくるものです。


Tom Lebrero「松尾芭蕉」


 「Matsuo Basho」から一転、キーボードに楽器を変え、アグレッシヴな「Doctorado en Santiago de estero」で会場に向けて高い熱量を投げかけ、上半身を脱ぎ、猛々しい声には、それまで、穏やかに聞いていました、また、「マツオバショウ」に笑みを浮かべていた会場の人たちもハンドクラップとともに徐々に盛り上がってゆき、楽しそうに最後は「ラララ~」と一緒に歌っているというのはいい風景だな、とあらためて思いました。

 誰かの目当てで来ましても、こうしてアルゼンチンはブエノスアイレスからのアーティストにも魅せられるということ。また、今年は本当に名称が分からない伝統的、民族楽器が全編を通じてあり、そういったところから伝わってくる何かには全編を観終わりましたときに、気付くものがありました。

 そして、ブエノスアイレスからレバノンへ。

 レバノン出身のYasmine Hamdan(ヤスミン・ハムダン)。彼女は、アラブのトリップホップ・バンドといえるSoapkillsのボーカルを担っていましたが、初ソロ・アルバム『Ya Nass』には、ダブステップ以降のダークで重いビートの中で中東的な旋律がたおやかに揺れ、また、彼女の声が哀慕を誘うバラッドまで多様な曲がおさめられており、汎的な大文字のグローバル市場を狙ったのでもなく、しかし、自身のコアを活かした上で、ダブ、アンビエント・ミュージックの影響がより彼女の存在を毅然と際立たせています。実際、今回のステージでは軽やかな衣装でパワフルに飛び跳ねたり、チャームなところがあったのですが、一曲内でのサイケデリックなグルーヴのダイナミクスを味わいますと、トリップする―そんな瞬間もありながらも、そのうねりの渦の目の中で言葉を紡ぐような静かさが訪れたり、1曲に込められた情感に応じて自在に曲の枠を超えてゆくようなところがどうにも素晴らしかったです。筆者としては、3曲目の「Ne Diya」が白眉でした。

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 閑話休題。

 くるりのダブル・アンコールで、「宿はなし」が演奏されましたときに、全アーティストの位相がつながった自身の感覚とは、ひとときばかりのサロンに放浪者たちが集まり、ひとときの対話を交わし、また、次の新しい旅に出るというもので、それが近年の京都音楽博覧会とは違ったものかもしれないと思いました。終演後にバック・ステージで、くるりの佐藤氏と少し話をしましたら、「(色んな大陸に分かれていたものが)最終的にパンゲアになるような。」みたいに言っておられましたが、本当にそういったものを前半のアーティストたちからは強烈に感じました。更には、トラヴェラーズ・コミュニティーに入っていたSam Lee(サム・リー)もイングランドの伝承歌を多様な楽器、それこそ、琴から三味線、カラバッシュなどを用い、ずっと伝承されてきた歌に今のサムからの敬意の示し方が現前してもいました。


Sam Lee「The Ballad of George Collins」


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 なお 当日の京都、梅小路公園は近年の再開発もあり、京都水族館、公園、カフェなど含めまして、ごった返しており、秋晴れといいますには、暑いくらいでした。そんな暑さをさらに、ヒート・アップさせるかのようなtofubeatsは、近くの観客が「このイベントでこんな打ち込みのは初めてじゃない?」と言っていましたが、短いながらも、出し惜しみのないセットで、青空の下で聞きました「No.1」は妙にグッときました。更に、「Don’t Stop The Music」やくるりの「ロックンロール・ハネムーン tofubeats remix」などのまさに、ダンス・ミュージックが流れるというのはそうかもしれないとも思いました。過去、08年のレイ・ハラカミ氏のときはシャボン玉や空が綺麗で、あの音で泳ぐようにみんなが観ていたという印象が強くあります。ただ、tofubeatsの柔らかくメロディアスな側面はイベントにも合っているようで、ラストの「水星」では彼を知らなかった人でもノり、呟いていたキャッチーさはさすがでした。


tofubeats「水星」



Rei Harakami「Red Curb-Wrest」


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 そして、グッズ売り場でもひときわ長蛇の列ができ、一気に前に押し寄せる人たちを見ながら、椎名林檎が始まりました。京都の野外で、彼女の歌を聞くというのもなかなかないことですが、斎藤ネコさんのストリングスカルテット+ピアノ+アコーディオンという編成。「いろはにほへと」で始まり、完全シークレット・ゲストの石川さゆり女史を招いて「カーネーション」、「名うての泥棒猫」、「最果てが見たい」から、ひとりに戻ってからの「丸ノ内サディスティック(EXPO Ver.)」での訴求力はやはり凄く、浴衣姿での「NIPPON」も爽快でした。ただ、圧巻だったのは最後の「ありあまる富」。どうにも引き込まれてしまう切実なフィーリングさえ見え、今の時代へのカウンターでもあるようでした。


椎名林檎「ありあまる富」

       もしも彼らが君の 何かを盗んだとして
       それはくだらないものだよ
       返して貰うまでもない筈
       何故なら 価値は生命に従って付いている
          (「ありあまる富」、椎名林檎)


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 斜陽の折、じわじわと日が落ち始めたときのサウンド・チェックの時点からペンギン・カフェはまさしく、“サロン”の中で率先して話をするリーダーのようで、肌理細やかなアンサンブルには陶然としました。今年の3月にリリースされましたアルバム『The Red Book』もユングからインスパイアされているなど、美学をもった姿勢はさすがで、ポスト・クラシカル的な音楽がときに、室内楽におさまりそうなところを野外に対してしっかり拓かれていました。


Penguin Cafe「Black Hibiscus」


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 主催者にして、トリをつとめますくるりは、BOBO、福田洋子のツイン・ドラム、高田漣、権藤知彦、野崎康弘、ザ・サスペンダーズの渕上義人、岡崎昌幸の10人体制で新作『The Pier』の冒頭曲「2034」から始まりました。これがライヴで再現されますと、シンフォニックに雄大に拡がっていき、内的宇宙性を感じもした録音物と比して、ライヴの場では重なってゆく音によって刷新されてゆくカタルシスがあり、アルバムの曲順どおり「日本海」へ。コーラスも不穏さを煽りたて、アルバムよりもダークな印象が際立っていました。矢継ぎ早の「Brose & Butter」は、筆者として新作の中でも好きな曲だっただけに、ライヴで初めて体験しますと、柔らかなハウス・ビート、アラブの旋律と東欧性のクロス、ヒップホップ的にライムし、歌うさまも緻密なアレンジメントの下に成り立っていて、改めて発見することが多く、よりライヴでどういった形に化けてゆくのか、期待が募ります。

       焦げ付いた思い出は ほろ苦いけど
       また会う約束 ここで朝食を
           (「Brose & Butter」)

 続いての「Liberty&Gravity」。もっと場は活騒となるかと思いましたが勿論、自由に踊っている人や、例の振り付けをする人も居ましたものの、しみじみと夜に馴染んでもいて、それも不自然じゃないところも興味深い曲だな、と改めて。MCで岸田繁の「8年目の音博はどうですか?」と、メンバー紹介の後からの流れも美しかったです。「Time」は、いつかの音博の人気曲「京都の大学生」に変わる存在になりそうで、「三日月」から「Jubilee」、そして、「グッドモーニング」はしみじみと心の琴線に沁み入りました。


くるり「グッドモーニング」


 京都音博で聴く「グッドモーニング」は特に、その音から浮かんでくるイメージが違うことがあります。昨年の「グッドモーニング」より今年はまた違い、それは、個々心情によって曲とは感じる何かが異なるのは当然だと致しましても。

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 最初からずっと観てきました中でよぎっていたことを整理し直してくれるように「loveless」に続きましたときの情感。本編ラストの「東京」はサム・リーたちと観たのですが、「これは彼らのメジャー・デビューシングルで98年に出ているんだよ。」と言いましたら、「エクセレント。ずっとデビューの曲をやり続けることができるのは素晴らしい。」と返され、終わらないで、続くこと、続けること。そういったことによって、瞬間は間違いかもしれなくても、道は、未来は拡がってゆくのかもしれません。そういうことを今年は想う機会が多かったのは、奇遇でないとも思います。

 アンコールでの亡きレイ・ハラカミ氏、佐久間正英氏に捧げられました「There is(always light)」の多幸性は、今のくるりとしての悼み(痛み)を抱えた上での眩さがあり、ダブル・アンコールの「宿はなし」では“今の”という冠詞がいらなくなるような ― 時間軸を抜け、ループするようにトミ・レブレロの音を想い出し、全体としての京都音楽博覧会が私の中で呼応し続けています。”The Pier”(桟橋)というのはこういう意味もあるのかもしれないな、とも。

       There is always light behind the clouds
       空に舞う grief&loss
       Love the life you live,Live the life you love until we meet again
       生きなければ
                (「There is(always light)」)

2014.9.23.寄稿
※このライブレポートは松浦達氏のブログ【Rays Of Gravity】に掲載されたものを転載したものです。ブログの方もご覧ください。