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Mr.Children『REFLECTION』によせて

〜過程を刻むための、語り部のまわり道〜 文=松浦 達

序文

 Mr.Childrenの最新オリジナル・アルバム『REFLECTION』が話題になっている。話題の成り方はアルバムの内容そのものにもよるが、幾つかのリリースに至る経緯、リリースの形態、または綿密なビッグ・プロジェクトの様相を帯びていたのがあり、細かくはここでは述べずとも、丁寧にかつ細部まで纏められたものがサーチすれば出てくるので、簡単にだけ触れる。前作にあたる2012年11月のアルバム『[(an imitation)blood orange]』は何重もの括弧付けに囲まれたタイトル名が示すように、ある時期からメイン・シンガーソングライターたる桜井和寿が取材で多くを語らず、「聴き手に委ねる」旨に近いことに沿い、これまでの長いキャリアの中で得てきた信頼や膨大なファン、評価の中の“ミスチル”をミスチル自身がパスティーシュするようなところがあったのは否めず、主客は未分化され、郵便性の高い「うた」が不気味にスクエアなアレンジメントを通して、耳障りよく濾過されたうえで、聴き手に預託される、そういった傾向の極北にあるように思え、過去に、筆者はCOOKIE SCENEにおいて当該作を巡って、乱暴な論点はあるが、こういったことを書いた

 “今作は遂に「主/客」の未分化が彼岸まで進んだと云えるところがある。そこが誰しもその歌に入り込めるという訳ではなく、そこでの僕は“僕ではなく”、あなたは“あなた”ではない“記号等価性が高まったからだ。その間隙を縫い、別離、死や希望などの大きな言葉が芽吹く。(中略)彼らが放つ熱量は、「共犯」とかでは間に合わないくらいのレベルでメルロ・ポンティ的な「既に、出来上がった思想」を翻訳する行為を個々に託しているのではないだろうか。”

 リリースからの時間の針を進めた上で、少し敷衍して考えてみる。 前作は、2011年3月11日の東日本大震災を受けて、彼らの復興支援の意味で、配信限定でリリースした「かぞえうた」からの流れを踏まえたアルバムでもあり、同時に、震災後に隆盛した“不謹慎”という言葉を彼らなりに誠実に護ったといえる。聴き返すと、物足りなさより、当時の緊縮した状況を反映した空気感に音楽がどう対峙していくべきなのか、の模範として響く。また、それくらい、余裕とまではいかないが、遍在する意識や言葉を翻訳し、慮るための空気感が許されていたゆえの時間枠に刻印されたものだとも思う。

 映像作品としてもパッケージングされている『Tour 2011 SENSE』における、アンコールで「かぞえうた」を演奏する前に、桜井氏が以下のような概要の長いMCを挟んでいる。ニュアンスは変えず、要約、意訳しておくが、ライヴを観ていなかったり、気になる方は実際に映像で確認してほしい。

 “3月11日、震災が起きて、すぐにメンバーと小林(武史)さんとスタッフとミーティングをして、(ドラマー)の鈴木くんが“一曲作って、すぐに配信して皆に聴いてもらって、その収益を義援金にあてるのはどうなんだ、という提案がありました。(中略)曲を作るにしても、誰かを励ましたい、とか、誰かを感動させたいとかそういう気持ちは疚しい気がして、素晴らしい提案だと思ったものの、何日か過ごしてたら、「かぞえうた」というキーワードが浮かんできて、震災があって、絶望の真っただ中、目の前、真っ暗な中、何をかぞえようと思ったとき、絶望とか苦しみとかかぞえるんじゃなくて、暗闇の中からでも希望をかぞえて、生きてゆく強い力が人間にもきっとあるんじゃないか、と。”

 あの日から、もう四年半が経とうとしているが、東日本大震災というだけに絞らずとも、また、復興の道は遠い中、風化の気配が漂っているということだけでは片付けられないレベルで、複層的に世の中が雪崩れるように変わっている。多くの天変地異やその他の心痛む人災、日本の外を見ても、世界各地で、異常気象やキナ臭いニュースがインフレ化していて、いつかの“絆”や“希望”といった大文字はどこか退行の瀬にあるようにさえ思えてしまう。でも、「かぞえうた」は予見ではなく、もはや、共通言語の底流が失われてゆくだろう前夜に大部分がひらがなの歌詞表記、平易な言葉とメロディアスなミドル・バラッドとしてミスチルの本懐を全うしていた曲のひとつだったように振り返ることができる。だからこそ、“数え直さないといけない”状況下に彼ら自身こそ、置かれていていたのかもしれない。想えば、余談だが、1995年の阪神・淡路大震災のときの義援金のために「シーソーゲーム~勇敢な恋の歌~」を8cmシングルで彼らはリリースしていた。一時期のXTC、エルヴィス・コステロへのオマージュを込めたバブルガム・ポップに殉じたラブソングとして、若さと奔放さが溢れていて、いまだに人気曲のひとつだ。カップリング、いわゆる、2曲目には「フラジャイル」という不穏なヘビー・ロックがライヴ録音で収められていたが、無邪気に不穏さやタナトスに飛び込むことが出来るのは“若さの特権”と言い切れ、同時に、歳を重ねてロック・バンドを続ける宿命とはことほどさように難しい。先ごろ、ライヴで観たサザンオールスターズなどはそのバランスをうまく保ちながら、それでも、桑田佳祐というフロントマンが“サザン”を起動させ、その舵を取る際の覚悟とは聴き手サイドの想像を遥かに越える、相当なものがあるのに鋭敏に感じられた。ライヴ自体は“みんなのサザン“をしっかり請け負い、全うしながら、要所で反骨の伺えるセットリストと演出、選曲になっていて、その日和らなさも頼もしく映った。ミスチルもシーンを攪乱し、ときに裏で舌を出して見せる無邪気な偽悪性になり振り構わず、(ロックン)ロールしていたときはU2、ストーンズ、レイディオヘッドなど世界の名だたるバンドへの衒いのない敬意と共振性の中を軽やかに游ぎ、また、家族や日常、ささやかな幸せの大切さをテーマにしたり、スポーツの祭典の主題歌、映画、CMとつながり、親から子へとつながり、国民的なバンドへと着実に歩んでいった軌跡はイロニカルなことに、ミスチルが持つ物語性や繊細な機微が形骸化し、“装置化してしまった”側面も孕まざるを得なかった。



プロジェクトのなかで、蘇生する生々しいロック・バンド像

 ただ、その“装置化してしまった“側面を的確に悠然とSWOT分析したように思えてしまうのが、今回の『REFLECTION』を巡る一連の所作のような気さえして、テクニカルなようで、遊びの要素も活かされていて、ライヴ・パフォーマンスも映像や演出の凝ったところは流石だったが、シンプルなバンド・サウンドが基調になっていたり、どこか円熟した瑞瑞しさをおぼえた。SWOT分析とは経営戦略の際に用いられる基本的な手法だが、Strength(強み)、Weakness(弱み)、Opportunity(機会)、Threat(脅威)でポートフォリオを描き、マッピングするもの。SとWは縦軸として内部環境、OとTは横軸に外部環境、そして、細部を抽出してゆく。このステラテジーには更に”PEST“といった環境因子を組み入れたり、既存のデータベースを活用したものまで周縁には多くの要素から分析手法も付随するが、基礎的なものとしてSWOTを今回は取り上げる。S(強み)に関しては、彼らの場合はセールス・ポテンシャル、ファン・ベースの大きさ、確固たる知名度、評価などが確然とある。W(弱み)は、前述したようにいささか刺激の少ない曲、誰にも優しい曲が増えざるを得なくなってきた、ある種の仮想敵として新進のロック・バンドからの押上げなどが上げられるかもしれない。SとWは表裏一体でもあるので、ミスチルまで行くと、WもSに成り得るところもある。そして、外部環境として、O(機会)に関しては作品のリリース、プロモーション、ライヴ・ツアーという慣例を彼らもなぞっていたが、今回はまずファンクラブ限定のライヴハウス・ツアーを行ない、そこでまだ発表してしない新曲群を披露するという試みを行ない、その模様をドキュメンタリー映画として公開する方法を取った。そうなると、新曲群への反応がネットなりあらゆるところへ点在することになる。となると、それらはどうなるのか、という意味で外部の外部にいる第三者的にも「何か面白い試みをしている」という(間接的な)訴求性を持つ。ただ、附箋しておくに、新曲や新作を控えた上で、ウォーミングアップ的にライヴを行なうというのは然程、珍しいことではなく、海外ではある程度のセールス規模を誇るバンド、アーティストは冠詞なしのツアーなどを始め、そこで大量の新曲、未発表曲を演奏するなんてことはある。アルバム・タイミングで、というより、アルバム・リリース前にフェスで来日したバンド、アーティストの新曲を「体感」した人は少なからず居るのではないか、と察する。T(脅威)は、AKB48やアイドル・グループをはじめとした多様なパッケージング戦略や配信文化の定着などがあるとともに、いざアルバムがリリースされた今となっては、一つひとつのタイミング、パズルのピースがうまくはまるのかどうか、危うくも大きいプロジェクトとしてミスチルの中のバランスも大きかった想いがある。コンセプトとは主体側のエゴであるケースがある中で、そのコンセプトへの理解のための説明書は”懇切丁寧に越したことがない“のだろうが、反位的な一例に、昨年の2014年9月に突然、リークされた世界で注視される日本の気鋭のアーティストのひとり、world’s end girlfriendが変名で世界のどこかにニューシングルをリリースしたというときは謎解き以上の”不親切さ“に胸躍るものがあり、そういったものと共存していけばいいのにな、とは思いもする。何らかの手段を経て手に入れること、何らかの目的で手に入ることは、”ら“抜き言葉作法以前に、行動心理を規定したりするからで。

 今回、ファンクラブのイベントで初めてアルバムに収録される一部の曲を演奏→ドキュメンタリー映画として公開→ライヴ・ツアー→アルバム・リリース、都度、収録曲の幾つかが映画やCMとのタイアップが発表されていき、段階的に、断片が全体像を浮かばせるような演出形態になっていった。また、一部の曲のクレジットは従来どおり、小林武史の名前が入っているものの、所属組織の分社化に伴い、事務所の変遷、また、彼らの強い意思によるところもあったのだろう、基本はセルフ・プロデュースになっており、そういったところから『REFLECTION』を巡っては、これまでとはより違った在り方を追求、模索していたのはうかがえる。昨年の11月にはこのmusiplでも編集長の大島が言及していた「足音 ~ Be Strong」がパッケージものとしてリード的な意味合いを含んだシングルとしてリリースされているが、表題曲のプロデュースの名義は”Mr.Children“だけとなっている。TVドラマの主題歌という因子は付帯していたものの、リ・スタートとして選んだような意味深長な節がある。

 もう怖がんなんで 怯まないで 失敗なんかしたっていい 拒まないで 歪めないで 巻き起こってる すべてのことを真っ直ぐに受け止めたい (「足音 ~Be Strong」)

 

Mr.Children『足音 〜 Be Strong』

 



知っていることであえて疎外してしまうもの、選ぶことができないという選好性

 整理しておくべきことが長くなったので主題に戻すが、『REFLECTION』は昨今では当たり前になってきた数形態でのリリース方式を取っている。基本は、23曲が総体。『{Drip}』という名称のものがオーソドックスなパッケージでCDに14曲が収められ、初回限定盤には以外の9曲を別途、購入するできるコードが入っている。『{Naked}』と称された限定豪華版は、既存の初回限定盤に値するCD、ドキュメンタリーDVDに、写真集、更にはCDには入っていない曲を全ておさめたUSBが付いてくる。ちなみに、そのUSBはMP3形式だけではなく、ハイレゾでの音源も入っている。デモ音源が試聴できるQRコードからライナーノーツ、何より、それらを収納した立派なトールボックスまで所有物としてのアウラも刺激される。いくら、配信が手軽で快適だといっても、CDやレコードといった様式美がそう簡単になくならないのはジャケットからモノとしての所有することへの意味、文脈を持っている人がまだまだ多いからで、何かを買う、買うために動機づけを作るという「行為」はすぐに消え失せてしまう何かではなく、実のところ、後々、自身の記憶資源と共有されるからなのだろう。実際に行動しないと手にできないもの、行き着けない場は数多あり、手にできないことを諦めて、あえて行動しないという倒錯も生まれ得るのが厄介だが。だからこそ、リリース当日の2015年6月4日のリアルタイムでの個々の呟きや感想、それらをクラウド化してゆく現象を見ていたら妙に興味深かった。『{Naked}』は9,000円ほどする高価な設定なものの、予約で店頭発売がない店が多く完売していたり、即座に転売され、高値で出ていたり、狂騒的とはいかないが、ミスチルの新しいアルバムに絞って見ていると、“ニーズ”として求めていた何かが“ウォンツ”として限定豪華版を求める集態意識を強く刺激したかのようで、また、そこにそれを手に入れた人たちの写真や口コミ、また、感想ブログなどが乱立してゆくのはコンテンツのダイバーシティー(diversity)の凡例を見ているようだった。

 また、普段はもっと無造作に行なわれているような情報交換がどことなく、個別管理内で情報非対称性を是とする流れが出来ていたことで、無論、違法とされるアップロードやダウンロード行為、ファイル交換は当然、良くない。ただ、今の時代、必ずどこかで行なわれていて、ふと無意識裡にでも、動画配信サイトでチェック、観ている何らかのプログラムの源には膨大な予算が掛けられた商品だった、いや、商品だというのはあるのは分かりながら、観てしまう、聴いてしまう経験はないと言い切れないだろう。その紙一重のグレーゾーンを咎めることはなく、また、知財権などのクリアランスは一層、はかられるべきだと願うばかりなものの、ミスチルほどの規模になれば、情報の非対称性より寧ろ、トリクルダウンは早くなるのだが、縄抜けさせない個々の想い入れに伴う排他的な他者性の忖度、慮りの測位のねじれのような現象があちこちで見受けられたりしたのには、深く考えさせられた。価格尺度は相対的としても、決して安くない限定豪華版に付加される肥大するツリー状の欲望群は、別の事象でもよくあるだけに、内奥の形質とは一体、何を示唆していたのだろうか、と。

 いまだ話題が尽きないトマ・ピケティにも多大な影響を与えた、フランス人の歴史家、フェルナン・ブローデルの著書のひとつ『物質文明・経済・資本主義15世紀~18世紀』(みすず書房)では、15世紀から18世紀の資本主義の流れに対して統計学を用い、社会の動態を時系列史として捉えていた。モノが実際に動いたデータ・マイニングして、時代の実態経済の動きを明確化できるのでは、という考えから書かれたもので、そこで、彼は、「特権者たる者がつねにあまりに少数だ」ということに敷衍して、「非・特権者の貢献はそういった人たちの提供剰余に依存する」という旨に触れる。今はビッグデータ分析が容易になったので、富や財を取り巻く自己再生産のシステム論とは、ミイラ取りがミイラになる、そんな簡単なものではない気もしてくる。彼らの新作の歌詞でもこういったものがあった。

 「事件(こと)の裏側」すら簡単に閲覧(のぞ)けてわかった気になる でも本当は自分のことさえ把握しきれない なのに何が解ろう?

 「出来ないことはない」「どこへだって行ける」 「つまずいても また立ち上がれる」 いわゆるそんな希望を 勘違いを 嘘を IDカードに記していこう (「fantasy」)

 イロニカルだが、先に触れた「かぞえうた」の希望、に、勘違い、嘘といった言葉が並んでいる。自分を探す、自意識の中に真実が在る、そういった先鞭をつけてきたような彼らの自我とはどこまでの部分でリアリティを帯びるのか、ファンタジーな所作なのか、再考させられる。



ルーツを再確認する、古くも新しいサウンドへの回帰

 さて、『REFLECTION』は、Mr.Childrenとしての新作という枠で対峙すると、目新しさはない。それでも、いい意味での山っ気やぎらつき、偽悪性があり、スタジオ録音作品ではどうにも輪郭がぼやけてしまいがちだったソリッドなバンド・サウンドが響く曲も散見する。ベテラン・バンドの充実した作品ともいえ、エンニオ・モリコーネからウィルコ、オルタナ・カントリーを歌謡的に希釈した「斜陽」でのショート・フィルムのような四分間、得意とするスケールの大きいロッカ・バラッド「Starting Over」では、モンスターがいて、銃声の響く世界で、終わりの中で始まりを見出そうと弾倉に弾を込める、戦時下のための背中を鼓舞する力強さがあり、ダークで耽美的な「WALTZ」、ビートルズの「Tomorrow Never Knows」的なサイケデリックな始まりから、うねるようにじわじわと熱をあげてゆく「未完」はライヴでこれから盛り上がりを担う高揚感がある。

 今作にあたって、インタビューで桜井和寿は、自分の中の浜田省吾、甲斐バンド、初期のJ-POPからの影響と、それ以降に色んな音楽を聴いてきたごちゃまぜな感じ、どこにも方向が定まっていない、ぐちゃっとあるのが『古新しい』感じがした、と述べている。(参考:『ROCKIN’ ON JAPAN 2015年6月号』p.53より)実際、浜田省吾、甲斐バンド、尾崎豊、KAN、ナオト・インティライミなど彼がよく言及する日本の音楽から、ビートルズ、ストーンズ、ブライアン・ウィルソン、ブルース・スプリングスティーン、ボブ・ディラン、ビリー・ジョエル、U2、レイディオヘッド、ジャック・ジョンソン、マルーン5、コールドプレイなどの音楽エッセンス、そのまた先のルーツ・ミュージック、伝統文化への歴史背景の中で揉まれるさまが要所に色濃くごちゃ混ぜに出ている。これと同じなようで非なることを桑田佳祐もいみじくも言っていた。自分はずっと洋楽という“洋食”に憧れてきたが、今回(新作の『葡萄』)は白いご飯、和風の出汁をとった味噌汁、お新香を付けることを心掛けた、と。昔ながらの洋食屋で出すような“ビフテキ定食”と。(『SWITCH』2015年4月号p.22より)ロック・バンドのロック・アルバムというには、ミスチルの場合も和食の良さを追求してきたようなチャームが強みであり、そこが寧ろ、異国の人からすると、日本のメガ・バンド以上の色眼鏡を越え難い“枯木灘”的な土着性をおぼえさせた、させているのかもしれない。サザン的な古き良き洋食店の定食ではない分、アルバムを聴いていると、和食という文化財をとおして思い浮かべるものは千差万別で、ここが契機でその先の彼らのごちゃ混ぜになったルーツを辿ってほしいような気にもなった。

 和食でも、創作的にフランス料理の要素を取り入れた京懐石のお店で小鉢が見事に並ぶ眼福で食べるような類いから、焼き鮭、白米、納豆、卵、海苔、味噌汁、お漬物なんて旅館で出される朝食も純然たる和食だ。”COOL JAPAN”やその亜種ばかりじゃなく、島国的で野暮ったい良さがミスチルには元来ある。「FIGHT CLUB」という曲では同名映画さながら、ブラピの固有名詞が上がり、歌詞の情景の向こう側には浜田省吾から尾崎豊、または長渕剛的な”血と汗と、友情“みたいな残映が軽快なバンド・サウンドに撥ねる。どこか演歌的な―演歌、といっても定型的なイメージの先に多様に情緒や郷愁を誘うひとつの文化的理由を置くような―歌謡性を含む切ない日本の侘び寂び感漂う「忘れ得ぬ人」にはベタッとした情念がしみじみ染み入る。「進化論」でのまさに、和の味付けの妙はミスチルだな、と感じる。好戦的で刺激的なものはすぐに消費されてしまうこともあるが、和食の妙味は出汁のパッシヴなところに左右され、長く感覚に”遺る“何かがあったりする。また、多彩に食を重ねるほどに、淡い味わいを通じて舌から見える景色が出てくることがある。

 『REFLECTION』は、実質的な本編14曲と、総体たる23曲を通じて、ウロボロスの蛇みたくミスチルがミスチルそのものを飲み込むような感覚を受けるが、近年のような漂白された記号的なミスチルで消失するのではなく、Mr.Childrenというバンド体として再定義されてゆく“過程で終わる”ようなところが明確に違うと感じる。高度に計算されたプロジェクトと、これだけ巨大化としたバンドになっても、どことなく足元がおぼつかず不器用で、日本的で、サービス精神に富んだバンドだな、という印象の束が反射する様がでも、何より今のシーンでは貴重な存在に思える。こういった立ち位置のバンドがそう見当たらなくなってきたからなのかもしれない。そして、彼らの存在や音から、かつての誰かが同じことをしたように、楽器を持ち出す子やペンを持ちだす子が居るのだろうな、と邪しまで少し愉しい想像が飛躍もする。緩やかにでも、バトンは受け継がれて、世代は交代されていけばいい。

 進化論では首の長い動物は 生存競争の為にそのフォルムを変えてきたと言う 「強く望む」ことが世代を越えて いつしか形になるなら この命も無駄じゃない (「進化論」)

 切り札を隠し持っているように思わせてるカードは 実際は何の効力もない だけど捨てないで持ってれば 何かの意味を持つ可能性はなくない (「幻聴」)

 最後に、そういえば、自身の小説に幾度も“Vivr para contarla”というスペイン語のフレーズを忍ばせた偉大な作家が居た。日本語に訳せば、「生きて、語り伝え得たのは私(だけ)だった」となる。



   
         
 

2015.6.11.寄稿