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サザンオールスターズ
『ピースとハイライト』

 今、あえて不謹慎なことを云うのは、不謹慎だとそれを認識(または、誤認)している人たち以外の網に届くのではないか、との思いとともに、2014年の大晦日の紅白歌合戦でギリギリの交渉だったのだろう、急遽、サザンオールスターズのライヴが入った。直接的には東京五輪に向けてではないにしろ、ポジティヴなヴァイヴに溢れる「東京VICTORY」だけではなく、「ピースとハイライト」という再復帰曲とともに。
 当該曲を、また、周縁や行動を巡って、議論が起こっているが、2013年のリリース時点で「ピースとハイライト」は煌びやかなバブルカム・ポップに桑田らしいイロニーと前向きなメッセージを含んだ軽やかな歌だった。そもそも、サザンオールスターズは“不謹慎”なバンドとしての歩み方を築きながら、時代的なムードと寝添うように、ユーモアと過去へのオマージュと、ロック・ポップスの力学と、そこらに絶妙な温度差を保ち続けてきたバンドだったという気がする。加え、「不謹慎」という言葉も非常に記号的で過度にインフレ化しているが。
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 個人的な記憶を辿れば、ひとつの例として、90年代後半から00年代前半は若手のギターロック・バンドやテクノ・ミュージックに押され、なおかつ目配せをしつつ、アウト・オブ・デイトになりかけていたところもあった。1998年に、ベストセラー作家の東野圭吾の『夜明けの街で』からインスパイアされたサザンそのもののオマージュともいえる「LOVE AFFAIR ~秘密のデート~ 」辺りのヒットから重厚で情報量の異様に多い13枚目のオリジナル・アルバム『さくら』の途程では、本流というより、“オルタナティヴ”という言葉が根付くよりも代案的な作品をサザンオールスターズというバンドがシーンに向けておくりだした、やや自家中毒な雰囲気があった。ジャズ、デジロック、フォーク、乱雑な魅力こそがサザンオールスターズの内包する一つの要素であり、キャリア的な危機は多かったバンドの軌跡をなぞることができる。00年の「TSUNAMI」があったにしても、自らのスティグマ(聖痕)を清算しないといけないような立場で審査される、そんな意味合いを帯びてもいたが、35周年を契機に始まったこの2年ほどの再始動の流れはすべてが良い方向に進んでいるとは言い難い。
 メディアでの扱われ方、CMやタイアップ、元来の待望値含めて、ファンは“奥行き”をわかっていても、そうではない人たちは妙齢のバンドに即座の反応をくだすのだろう。だから、深読みとかの問題ではなく、“いつか”に通じたはずだろう共通言語のための前提条件が今は孤島化しているのだと思う。孤島でも、繋がる言語があるなら孤独は解消され得る。しかし、島同士を渡す船、飛行機でも往来のアンサーに関しては加圧が掛かっているともいえる。「右や左じゃなく、ただ愛国者なんだ。」、という人たちがいる。むしろ、立場は、今は無関係ではなく、非関係だ。そうであるならば、<非的>であることの矜持を(あえて言う)アレゴリーで中心部へ投げかけたサザンは相変わらずパフォーマティヴなバンドだと思う。
 或る誰かがこの曲に郵便性を感じてしまったとしたならば、それはひとつの日本内のメディア機能への主客の揺れだと感じさえする。無論、時差がぼけている、共時性が失われているわけではなく、また、その揺れが精緻に合っているわけではなく、位相がズレた中で討議の大文字だけが肥大してゆくという意味で。
 何故ならば、以下のこんな歌詞(メッセージ)が響かない瀬は物悲しいとさえ思うからでもあり、竜巻みたくニュースがひとときのものとして消費されてしまうより、曲そのものの形質を汲み取り、未来的な何かにつなげてゆこうとする際の多数の知性が読み取ろうとするアティチュードはそこまで拙速になるべきではないのでは、というささやかな疑念もおぼえてしまう。

歴史を照らし合わせて
助け合えたらいいじゃない
硬い拳を振り上げても
心開かない
(「ピースとハイライト」)
(2015.1.22) (レビュアー:松浦 達(まつうら さとる))
 


   
         
 


 
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