下田逸郎『この世の夢』 Next Plus SongBURNOUT SYNDROMES『文學少女』

王舟
『あいがあって』

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 ウサギとカメ、はたまたアキレスと亀。そんな古伝承話が婉曲されながら、あちこちで大きな言葉で用いられている。なるべくのこと、速く「出口らしき何か」に演算処理し、辿り着こうとすること、ゆっくり目的地へと歩みを進めてゆくこと―の差変は、存外、いっときの熱病みたく「社会現象」を焚きおこす。
 この新年が明けて、モノリスのようなロック・レジェンドたるデヴィッド・ボウイが逝去し、(一応の)遺作となる作品が、世界中に注視されている世界的な磁場にどれだけのレーベル・サイド、スタッフ、家族たちが関わってきていたのか慮ると、「死の導線、近接、をそのまま鳴らす」みたく安直な表現を想いもする。ジャジーに、ヘビーに、どこか世界情勢、ISを踏まえた不穏さをトレースしての、ダークサイドの先で微かに聴こえる声。
 「声」はひとつだ。
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 ここ数年で、多くの分野で「ひとつの時代が終わった。」という物言いの定型句が増殖している。確かに、偉大なレジェンドたちが天に還れば、追悼のための複線が増える。しかし、どんな次元でとは言わないが、席はあくのも確かで、時流も入れ替わる。タレントの方とロック・アーティストの一連の事象を追認しつつ、背徳/デカダンスとはそこまで、社会内の良識、集団的無意識によって「加圧される」ものなのかどうか、戸惑ってもしまいながら、ある“特定のイメージ”とは、その本人の内像を識ることがないままに、感情論や生真面目な倫理観が照射されてしまうケースが多々あるのを痛感する。
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 四角四面で「正しい」世界は、どう正しいのか、というトートロージー性を踏まえた上で、では、「何に妬めばいい、もしくは是認すればいいのだろう」という集態的な解体文法を再考してみてもいいのでは、と思う。毅然と「体制」があったときに、<反>を唱えるアティチュードは正しかった季節があったとして、今は、既存言語を脱臼させ、異化させる何かが大きいのではないか、という気がする。
 これからはセッションの中で、異分野の人たちがより明瞭に、鮮烈に聴こえるようになってゆくのかもしれない。王舟のこの曲を聴いていると、ボブ・ディランのいつかの行き当たりばったりの『ローリング・サンダー・レビュー』の麗しさや、フィッシュのライヴにおける自由度、または、決して限定されない“遊び”の部分にとても魅かれる。
 そもそも、マイルス・デイヴィスも”オン・ザ・コーナー”に立った時に毀誉褒貶がわかれた。このファンク・セッションのようで曲のグルーヴがうねり、要所には、お仕着せがましい引力を跳ね除ける自在性を含む、かの梅棹忠夫的な文明のきざはしを感じるのも道理なのだろうか。規制から解き放たれるように、遊びから許されるように。
(2016.1.18) (レビュアー:松浦 達(まつうら さとる))
 


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