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正山陽子
『旅立ちの歌』

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 新しい春、変化の季節ということで、相応しいものを。昨今の各アーティストやバンドなどのリリック・ビデオにはハイパー・インフレ的になってしまっていて、それを称するに市場決済単位の「言語」と認証されているのに、その「言語」をすぐにディスクローズする際による誤配に対してのシンギュラリティを分かり得ないのではないか、と思いもするが、ニュージャズに称されているものの、今の正山陽子のこの『旅立ちの歌』は非常にブルージーでロック・フィールドからは鬼束ちひろ、または矢野顕子、故・エイミー・ワインハウスのやさぐれた抒情、ストーンドされた慕情を思わせるような重みを多層的に帯びているのが興味深い。
 先頃のグラミー賞での“囚人としての”ケンドリック・ラマーなど想い起こすこと、いつからか、公共放送と呼ばれる朝のドラマが実存する大組織の創業ドラマに変わってしまったこと、これから台頭してくるナレッジ・ブローカーのアキレス腱が切れたあとで、もう一度、古典をなぞる人たちを散見していると、この2016年3月、正山陽子は見事に「形式主義」を貫かず、戦前における“多くの声”の政治性に還帰した。
 手紙、きみ、ふたり、こころ…大きな言葉行き交い、なにより「きみを思う」-思う君が僕だった、というのは90年代、00年代のアフォリズムで、人称性をなくしていけばいいという磁場はあったが、結局、正山女史はトーンを落とし、記号としての「友達」を詠う。ビバップはジャズのダンス機能性を異化させたと言われる。チャーリー・パーカーが結んだ音像のなかに、“それ”を見出せる人はじゃあ、もっとアシッドに語っていけるような気もするが、そこもIoT、AIなどの流れで、適温で流れてしまうのかもしれない。以前より、彼女は「身体性」、そして、「身体性が帯びる歴史」により自覚的、野放図になっている。世界中に溢れる、大衆のために寄り添い、日常にスイングする“うた”のために。クールでは、もう居られないのだろう。

 旅立つきみの上を月が照らす
 僕はここで僕の道を歩いていくだろう
 (中略)
 きみが離れていても健やかであるように
 きみが離れていても笑っていられるように
      (『旅立ちの歌』)

 歌にのるものとしては別としては、残酷にしてセクシュアルな歌詞だと思う。
 それ以上の称賛も、それ以下の修整もなく、この彼女の言葉が「届かない」瀬はまるで今の過度なまでの規制と保身のあいだで宙空化し、安定しないポリティカル・コレクトネス(PC)の正鵠を射るような気がする。からして、せめて意味だけは翻訳機によって勝手に流浪しないように、との思いを込めて。せめて、ここでもどこでもない新しい場所へ。そこから考えてみてもいい。
(2016.3.4) (レビュアー:松浦 達(まつうら さとる))
 


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