くるり『The Pier』巡礼

              ―私たちの耳は見えているか  文=松浦 達

 実作品が店頭に並び出す頃、そうではなくとも、正式にリリースされる頃、今でこそ、フライングゲットといった言葉が戯画化もされていますが、何かをじっくり待つという行為は意義深さの質が変わってきていると感じます。明日そのものが見えにくくなっている中、その明日が「今日」になるという代え難さ。配信や郵送も嬉しいですが、自分で選択肢を択び、歩みを進める愉しみは、一度は経験した人もおられると思います。このmusiplというサイトはキュレーション的な側面もありますが、多方面に拓かれた試みを行なおうとするフレキシビリティーもあります。前段(※Pt.1は弊ブログ)を経て、このたびはくるりの新作がほぼ手に入れられる状態になっています上で、幾つかの副文脈も含めて筆致したいと思います。

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色彩のコレスポンデンス

 多くのメディアで、今作『The Pier』に関して言及されているものの、聴いた人たちが新たに色彩を重ねてゆくことで、イメージが膨れ上がってゆく曲と内容になっているとともに、ふと、武満徹の『私たちの耳は聞こえているか』という書物を想い出した。

 一点に耳を澄ませることが極端に減る中で、想像力は寧ろ自由性を奪われ、規制されているような環境にあるのではないか、という気持ちに時おり陥る人もいるかもしれない。膨大な情報量だけが壁一面を囲い、その中で自分のアンテナには限界がある。ゆえに、気になった作品の周辺を評判経済と価値経済の縦軸/横軸で敷き、最適合点を見出すような道を敷く。コンシェルジェやレビューもまた、今ならば、多くの数を精査できる。しかし、自分の耳や目はそれが“本当に聴こえている”か、はどんどん峻厳な状況になっているともいえる。図書館やレコード・ショップの入口を潜れば、真っ先に目的のモノの棚に行くのは当然ながらとして、興味深く魅かれる寄り道、脇道も多数、存在する。

 また、この作品からは、目的地へのショートカットではない、コレスポンデンス(correspondences)を感じる。万物への照応性と、既に遍在し、継がれている音楽を新たに自分たちで組成するような。

 



必然補足としての外縁

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