音楽を楽しむ能力

           音楽を楽しむために必要なスキルを身に付ける方法ときっかけ  文=大島栄二

現代における未知との出会い〜食べログの場合〜

 食べログとはなにか。日本中のあらゆる飲食店情報を網羅し、そのお店にお客さんが点数を付ける。その点数がお店の評価となっていく。その試みはとても面白いし、参考にはなる。だがその点数システムには異議も多く、一部の人の偏った評価がそのお店を貶めることもあり、その逆ももちろんある。その点数だけを見て食べに行き、なぜこれが高得点なのかと失望することもあるそうな。そして点数だけを見て食べにいくことをやめることもあるそうな。やめてしまっては自らの味覚で判断することも出来ず、もったいないことも起こっているのだなあと残念に思う。

 評価で点数が出ているものを覆すのは並大抵のことではない。多くの人は高得点の店に行き、「これが高得点の味なのか」と納得する。それは自らの評価ではなく、他人の評価の追認でしかない。何故それが美味しいのかではなく、「他人はこれを美味しいというのだな、だから自分もこれを美味しいと評価しよう、評価したふりをしよう」と。評価したふりをしているうちにそれが美味いと錯覚するようになる。もちろん最初はそれでいい。お袋の味などというものは一種の刷り込みで、人は刷り込みをベースに自分の価値という建物を築いていくものだからだ。だが、お袋の味に食べログの楼閣をいくら築いていっても、それは自分の味覚ではない。自分の味覚を身に付けるというのは、一度他人の評価を否定するところから始まる。他人がこう言っているぞ、でも僕はこうだ。その違いこそが、自分というものをオリジナルなものにしていく。無論全てを否定することは判断ではなく、すべてを肯定すること同様に意味がない。だから他人の評価を時に肯定し、時に否定する。何を肯定し何を否定するのかの基準が、すなわち自分の味覚ということである。その判断を続けることで自分の判断力は養われ、本当に美味しいものを美味しいと評価する舌と言葉を獲得していく。

 まずは他人の評価を否定するところから始めるべきだとすると、やはり端緒は他人の評価と接することでなければならない。食べログがその機能を果たしているのか。それは賛否あるところだが、他の接点を考えた場合、けっして無視出来ない、他人評価の物差しであると言えるだろう。

食べログと音楽情報の相違点

 以前知り合いと音楽情報サイトについて話をしたことがある。その時彼は食べログがひとつのモデルだと語った。音楽に詳しい人は市井に沢山いて、そういう人がタダでも書きたいと思っている。そういう無名の人たちの知を集めるのだと。僕はそれには疑問だった。

 音楽も食事も同じ嗜好とはいえ、やはり似て非なるものだ。食事の美味しいものは結構幅広い人たちに美味しいと感じられるが、音楽はそうはいかない。ある人にとって素晴らしい音楽が他人に取っては全く意味をなさないことがよく起こる。全く意味をなさない人から受ける低評価は、作品に取って大きなダメージだ。同時にその低評価が、その作品に意味を感じる可能性ある人と作品との出会いを遠ざけることにもなる。メタルコアなるジャンルを理解する人は少ないだろう。だがメタルコアのファンはいるし、そういう人はメタルコアの中の秀作と駄作を見抜く能力を持っている。そういう人たちがきちんと作品を峻別するならまだしも、秀作も駄作も同様に騒音にしか聴こえない人がメタルコアの評価に参加してくる。それが音楽の食べログが成立しないと考える大きな理由なのである。

レコード店の道楽オヤジとしての機能

 接点としてのひとつの可能性として、昔のレコード屋のオヤジという存在が考えられる。今のようにタワーやHMVが無い頃は、レコード店といえば地元の金持ちの道楽だった。道楽息子が家業の財を背景にレコード店を開業していた。そう、音楽に精通するなどよほどのヒマと財力を併せ持つ人にしか許されないことだったのだ。そういう道楽オヤジの知識にも意味があって、地方に暮らす少年少女にとっては道楽オヤジのウンチクが世界文化への扉だった。もちろんそこに偏りはある。オヤジもすべてを網羅しているわけではないし、個人的な趣味嗜好もある。そのオヤジのお薦めが合わない少年は別の道楽オヤジを探せばいいし、合う少年はそのオヤジの趣味に染まっていけばいい。

 そういうオヤジというフィルターを通して、いろいろな予測だにしない音楽を薦められ、聴いてみて、オヤジのウンチクを聞き、なるほどと思ったり、そうかなと首を傾げたり。そういうことの積み重ねで音楽を楽しむ能力を培っていたものだ。顔の見えるオヤジと接すると、その人の人間としての品性も判る。こういう人がこういう音楽を勧めるのだという事実も交え、少年はフィルターを養っていく。そこからさらに小林克也のベストヒットUSAを見たり、FMの怪しげな評論家たちのウンチクに耳を傾け、なるほどこういう音楽のこういう点が素敵なんだなと批評する物差しを獲得していく。

 しかし、テレビやFMの音楽番組も音楽雑誌も力を失っている。無論レコード店は壊滅の危機にある。道楽オヤジの個人経営レコード店など皆無に等しい。そういう中で、音楽ビギナーの若者はいきなりYouTubeに向かう。何の批評もない映像を見ることは、ある種のサバイバル状態というか、千尋の谷に突き落とされた獅子状態というか、本物の音楽マニアを育てるためにはいいのかもしれないけれど、それは「教科書を与えるから読んで勉強してね」と突き放す行為のようで、非常に不親切でもある。普通はやはり教師が必要だし、参考書や塾があって初めて学力を伸ばすことが出来る。音楽も同様で、別にお金を払って誰かに教えを請う必要はないが、別の人の物差しによって得るところは非常に大きい。だがビッグデータ全盛と同時に一次情報にアクセスしやすい環境が整ったことで、そういう機能は急速に失われつつある。

 このmusipl.comでやっているのはそういう機能の復活である。機能の復活というと大仰に聞こえるが、要は近所の個人経営レコード店のオヤジである。レコード店のオヤジは店内に置いてあるLPレコードからしかお薦めはできなかったが、musipl.comのレビュアーというオヤジは、YouTubeに置いてある動画からお薦めし放題。奥が広くて深い。その広くて深い音楽の闇世界に埋もれた音楽があって、それを力技で引きずり出してきて、「これはさ、こういうところがいいよ」という文面とともにお知らせする。そこが少年少女にとっての音楽世界への扉になれば良いと思って、毎日発掘作業に勤しんでいるのだ。もちろん、少年少女が年齢的に中年であっても一向に構わないのだけれども。

2014.4.14.寄稿

前のページ | 1 | 2 | 次のページへ

記事トップへ戻る