くるり『The Pier』巡礼

              ―私たちの耳は見えているか  文=松浦 達

フィクショナルな郷愁、知り得る範囲の未来

 YMO、エイフェックス・ツイン(新作での変わらぬ、乾いたセンチメントも美しかった)、デデマウスから、コリーン、ハウシュカなどポスト・クラシカルの要素を内包した「2034」には柔らかな電子音が撥ね、エディットの妙が活きたインストゥルメンタル。また、この曲でもそうだが、音の響きに、80年代的なフュージョンやAORの香りが要所にするところがある。そして、ピーター・ガブリエルから90年代初頭のワールド・ミュージック(と今やカテゴリー・フレーズでもないが)の雪崩れた時期の音楽の大航海時代の始まりともシンクロする。「80年代を不毛な商業音楽の時代だった。ワールド・ミュージックとは浅い認識論だった。」と言うのは尚早になってきているのは、MTVがポスト・インダストリアリズムを進め、無機的な大量消費の玉石混淆の音楽を作り出したとして、それらが90年代のオルタナティヴ的反動を生んだのならば、高度な情報化の波がもたらせた富や豊かさや地球の裏側の音楽も均衡して、ピーター・ガブリエルが創設したレーベル名そのままに〈REAL WORLD〉になっているからでもある。

 そのまま、暗みを帯びた舞踏曲「日本海」に繋がる。セクシュアルさもあるが、戦時下の大衆歌のような気配。シャンソンが御洒落でも何でもないのは、エディット・ピアフの歌やフランス文化の混沌を考えれば、わかるように。日本も今では、メルティング・ポットになったが、TPPといった諸条件や交易の自由化がより高速化してゆく中、郷愁はフィクショナルにも成り得るかもしれない。アラブのポップスに、ルーマニアのベースメント・ミュージックに筆者が昨今、感じる何かはいつかの日本の隠し続けていた“郷愁”なのかもしれない。歴史学者の亡きエドワード・サイードにならうべき、故郷があるのはいいが、どこをも故郷とも思えないのはなお、良いというのは分かる気もする。オリエンタリズムは「批判概念」ではなく、「前提条件」であるとして、アラブ地域の紛争やスコットランドの問題は果たして、もはや対岸にない。

 しかし、4曲目に配置された「ロックンロール・ハネムーン」がひとつの対象化をもたらす。シングルだけで聴いていたら分からないユーフォリアがここにあり、ファンファンのトランペットから流れ星のような電子音、トライバルなリズムまでが「2034」、「日本海」、「浜辺にて」までの空気を刷新させる。そこからの「Liberty&Gravity」、ジプシーパンク的な「しゃぼんがぼんぼん」辺りの疾走感は堪らなく昂揚する。

 ななななうなう ななななう ななななうなう ななななう 今を生きる悦びを 抱きしめてどっか飛んでゆけ (「しゃぼんがぼんぼん」)

 残酷な現実は枚挙にいとまはなく、今を生きることは紙一重だが、悪いことでは決してない。個人的にだが、大病を患い、天災・人災に伴い、深いヒポコンデリアに苛まれ、瀬戸際にあることがこの数年あった。気のせいにしてしまいたくなるほどの喪失があっても、その喪失さえ喪失してしまう。それでも、この年齢になって、花や動物がいとおしくなった。“メメント・モリ”ではなく、ここにあるものはずっとない、という当たり前の摂理で、井上陽水氏が作家の中島らも氏と対談したとき、周囲の人たちと話をしていて、健康にいいことを何をやっているか、という話題になり、「不信心だが、仏壇に手を合わせてみるとこれがいいんですよ。」と言っていたが、特定の宗教や倫理性を抜きにしても、「手を合わせる行為」とは各自、事前に行っているのではないだろうか。でないと、「loveless」で歌われる愛の在処はもっと拡散してしまう。

 前述した、9曲目「遥かなるリスボン」は優雅で感傷的なシエスタのためのロンド(輪舞曲)のようで、Bon Dia.という挨拶が交わされる。

 後半の入口は、「Brose&Butter」。角の矯められた柔らかい音の中で視えるのはパラダイス・ガラージと東欧の食卓のテーブル・クロスの交わり。近年の日本のインディー・シーンにおけるシティ・ポップへの彼らなりの回答ともいえる流麗な「Amamoyo」。

 過ぎたのは 遠い季節の話で 鈍色の空は 落ちて今にも全部消えそうだ (「Amamoyo」)

 衒いなく、涙や悲しみ、別離、そして、愛的な何かといった普遍的にして難しいテーゼを扱いながら、『The Pier』はとても風通しがよい。

 武骨なギター・ロックに眩いシンセが印象深い「There is (always light」で桟橋での決断は仮託される。I’m living nowとすぐ呟いて電子空間で確認、シェアできるようになったが、“なう”と呟かなくても、分かることは数えきれないほどある。逆に、これだけ何も分からなくなってしまったタッチパネル越しの肌触り、想像力、知識をあらためて取り戻すべき岐路はない。


There is (always light)

2014.9.16.寄稿
 
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