李俐錦(Li,Li-chin)『超級瑪莉(Super Mario)』 Next Plus SongWhite Lung『Hungry』

Shugo Tokumaru feat.明和電機
『Vektor』

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 以前のこと、シンガポールでの滞在時、たまさか現地の民族的な祭祀みたいなものに参加する機会があった。まず、地元の方が足で地面を打ち鳴らし始め、円舞し、そこからどこからともなくうなり声のようなものが聞こえて、合わさっていき、ドラムが叩かれ、笛が鳴り、打楽器が賑やかに重なり、自然と場はトランシーな状態になっていった。周囲は机を叩いたり、自身は持っていたペットボトルに砂を入れて振ってみたりしたが、“楽器はどこにでもある”、または、”祭祀は人が居れば、内側からおのずとでも生まれてくる”と思った瞬間だった。このトクマルシューゴのMVを観ていると、実際の楽器も出てくるが、彼の声や歌詞から明和電機の存在までがリズムを刻み、グルーヴを生み、意味無形に、象徴的に心身が弾み、同時に妙に原始的なサイケデリックな感覚にも襲われる。

 1996年に亡くなった武満徹という音楽家が以前、こういう事を書いていた。少し長くなるが、引用したいと思う。「たとえば、若い作曲家がもう西洋はだめだと言って、日本の楽器を使って音楽を書く。日本の伝統的な楽器だけ使って作曲すればいいというふうにいうことができれば、きわめて簡単だとぼくは思うけれども、そうはいかないのです。(略)非常に難しいと思うのは、人間もたぶん自然の一部かもしれないということなのです。ある限られた時間を生きて死んで、また子どもが同じように繰返していく――それは自然現象とそれほど変ったもんじゃない、特別なものじゃないと思うのだけれども、今日では人間の生はきわめて人為的にコントロールされてしまっている。(略)そうすると。人間のいまおかれている状況と、ぼくの音楽は、少なくとも無縁ではないと思うわけです。だからぼくは、自然の美とか、水のこととか、そういうことを書いていても、もっとその水なら水という表現、象徴がもっと強い意味をもたなければならないとだめだと思うのです。」(『映像から音を削る』、清流出版 p89-90より)

 巻末における初出は不詳になっているが、現在とは少し時代の隔たりはあるのは止むを得ない。しかし、言葉の隔たりは細部においてないと思う。現在においての表現は、人為的なコントロールの中でどう象徴に包含された強い意味を奪回するか、求められているのでは、と感じるときがある。そんな時に、こんな「音楽」がひとつの契機にもなるのではないか、と思う。混乱に飽きたら、メトロノームを置いて、とりあえず、目の前のものを触れてみたり、叩いてみたり、感じてみたりすることから始めればいい。そして、沈思していけば、じわじわと新たなリズムが生まれてくるかもしれない。
(2016.5.3) (レビュアー:松浦 達(まつうら さとる))
 


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