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コーネリアス『Mellow Waves』

〜ライヴで再写される高度なサイケデリア〜 文=松浦 達

1)触れない程度のエレガントなノイズで

 とてつもなくハードで、片方でエレガントな時代に巻き込まれてゆくのだなと思う。日本では、選挙日の前後に大規模な台風が襲来し、交通網は荒れている中で自身は久しぶりに会う昔からの友と京都で静かな場所を巡り、ジャポネティックな交流をして、夜の新幹線は多国籍な様相ではなく、ストレスフルなガラパゴスの縮図で、そこで2017年とは、とつくづく考えてしまった。IoT、AI、フェイク・ニュース、貧富差、天災などのきざはしがあっという間に囲い込んでしまった個々の心情からほんの隣に置いた真空を更に抉る事柄で景気よくまわるのは不特定少数のエゴなのかもしれず、10月22日に名古屋ダイアモンドホールという老舗の場所で観たコーネリアスはサイケデリックで、例の映像と演奏との同期から外れるインプロの中に小山田氏の声が枯れて聞こえるさまが美しかった。

 当該会場は前日は、Syrup16gの過去作にして秀作の『COPY』をメインにしたライヴが行なわれていたり、「単位」や「尺度」が変わっているのはどこも同じなのだろうか。終わりを迎えたバンドの再蘇生からの軌跡、長い沈黙からの新作をメインに置いた声明と、反骨と。

 アートであること、アートが既存の貨幣価値を越えるという意味を説諭するのは難しい。何故ならば、誰かにとっての無価値なそれが誰も、にとっては非=価値で暴動や不満の火種になりもするからだ。教育と教養の間にどんな歯がゆさを置けばいいのかどうか、SNSでの周到な予告編と急遽ドロップされる新曲から寄せられる膨大なコメント群を見るように。ハッシュタグから分かる事実に、現実から飛び越せる荒れ模様のネットで拾われる悪意を更に切り刻む言論の不自由さは手に余るようになってくる。

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 コーネリアスの『Mellow Waves』というアルバムが今年の音楽シーンの形成する作品のひとつなのは間違いないとして、どんな批評でも見受けられる“うたもの”に傾いだ結因としての「あなたがいるなら」、「いつか/どこか」、「未来の人へ」、「夢の中で」などでの純度はそれぞれ毛色が違えども、フォーキーでブルージーな要素を含み、“翻訳できない”侘び寂びの味を帯びてきていたが、ライヴでより心身に異化的に響いた。語り過ぎず、沈黙は金のままに、音響美に言祝ぐ坂本慎太郎の詩、ときに自身の詩をなぞる小山田氏の声から拡がる切なさ。「中年感が深まった」というのは取材であちこち言っていたが、生き延びて作品を纏めあげるときにこういう哀愁の要素に、コーネリアスの来歴の諸要素が今にアップデイトされる感覚はタイムトラベルのようでもあり、繊細で過度なセンスと膨大な歴史への畏敬とパスティーシュと茶目っ気を混ぜ合わせながら、90年代に音の遊園地ともいえる『ファンタズマ』を創り、当時は新しかったバイノーラル録音で耳に缶のプルトップを開ける音が右左に行き交う「Mic Check」からの、サンプリングと幾何学的な模様がシュリンクしてゆくさまからの長い行程に想いを馳せる。もう気軽に音を立てられないゆえに。

 

『Star Fruits Surf Rider』

 

  海のそばにいた 少し寒かった
  星が凄かった 誰もいなかった

 あの、8cmシングルを二枚、同時にプレイ・ボタンを押して、ひとつの曲になるか、なんて試していたのは小人、閑居して不善をなす、誰の特権に回収はされないものの、昨今のアナログ・レコードの活況の「手間」に似ているようで、その手間から聞こえる寓話性にせめてもの現実を預託していたのは懐かしさと彼岸で、海に行くには遠すぎた今年の永い夏を想い出してみても、サーフィンするのは情報の波の奥底で、同時に、ビーチ・ボーイズなインナーワールドへの潜り方だった感慨がある。普遍的なポップ・ミュージックが表象する寂寥に打ち寄せるのはほんのわずかな慈愛に近い、日々の生活から零れ落ちるサイケデリアなのかもしれない。こうじゃないといけないから、こういうのもあるかもしれない、への多様性への気付き。“気付き”が伝播すれば、話し合わなくても届くことがある。ジョイ・ディヴィジョン、ザ・スミス、はたまたレディオヘッドの表現がもう今は「暗すぎない」ように。


どこかで、いつも