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前野健太『100年後』
【待ち合わせの存在しない人生より、嘘ばかりの待ち合わせを交わす方が】

前回、先週土曜日にKANの「50年後も」のレビューをして。そしたらやはり「100年後」についても触れてみたくて、前野健太。50年後の未来というのは20歳同士のカップルには十分に在り得る未来でも、35歳同士になれば平均寿命的に見て両方が生きている可能性は半分以下になる。かといって50歳同士だからといって絶対に両方死んでるかというとそうでもなく。50年というのはそういう、在るとも無いとも言い切れない微妙な時間で。だが100年後というのは基本的に自分はもうこの世にいないということを前提にした時間のことなので、そこに「待ち合わせを」というのはいったい何のことなんだろうか。意味がわからない。でもこの曲、聴くと妙に納得するのだ。リアルなのだ。実際にはありえないはずの100年後の待ち合わせが、説得力を持つ。それは前野健太のシンガーとしてのポテンシャルも大きいのだろうが、それだけじゃないような気がするんだよ、僕は。100年後ではなく10年後の待ち合わせというのをしたとして、それなら多分生きてるよオレ、キミもまだ生きてるだろうと、それはリアルなのかというと、多分そっちの方がリアルではない。しかし、10年後に会いましょうと言って別れたとすれば、そのリアリティに欠ける予定をひとつの希望として持っていることができる。10年後に自分が行くかどうか、もし行ったとして相手がいるのかどうか。それを確約として信じ、もし来なかったら相手を非難するとかではなくて、多分行きもしないけれども行くことは許されているという予定。予定表がまったく白紙ということの恐怖の、対極にあるのがそのリアリティに欠ける予定なのではないかなあ。約束なんてどのくらい本気で行なわれているのか、多くの約束が反古にされることを前提としているのではないだろうか。だとしたら、それらはすべて100年後の待ち合わせのようなもので、期待する方が馬鹿なのではないだろうかと、そんな虚しいことを考えたりもするのだけれども、じゃあ約束や待ち合わせの存在しない人生に耐えられるのかというと、多分嘘ばかりでも誰かと時々待ち合わせを交わす儚さの方がちょっとだけ良いのではないかなあとか思ってみたりする。

(2018.2.19) (レビュアー:大島栄二)


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Posted by musipl