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サンボマスター『ラブソング』【作者の想いと、それとは関係なく起きる事象と、リスナーの心】

サンボマスターはギターのバンドだ。少なくとも僕の中ではそう。山口隆の抜きん出たギターセンスとギターテクニックがなければ、サンボマスターは知名度を得ることはできなかったのではないだろうか。彼のギターを最初にライブハウスで聴いた時は衝撃だった。それから数年後にサンボとしてメジャーデビューした時に多くの音楽ファンも同様の衝撃を受けたに違いない。

しかし、ただ単なるギターキッズというだけだったら、一過性の「すげえな」で終わったに違いない。山口隆という特異な存在は、その暑苦しいほどの感情にある。5thアルバム『きみのためにつよくなりたい』に収録されたこのラブソングもそんな暑苦しいような感情によって成立している。歌詞をじっくりとなぞってみると、別れの歌であることはすぐにわかる。彼女が自分のもとをある日突然去っていく。その理由が明確に書かれているわけではない。神が連れ去ったという言葉から、突然亡くなったのではないかという想像はできるし、山口なりの設定はあるはずだし、もしかしたらすでに当時のインタビューなどにそれは明示されているかもしれない。しかし作品は作品として独立するものであり、いずれ作者も亡くなり、インタビュー記事も消失し、100年後に曲だけがどこかで流れた時、たまたまそれを聴いた人は曲と歌詞からしか背景を想像できないのだし、それでいいのだと思う。

この曲が発表されたのもこのライブが行われたのも2010年。その半年後に東日本大震災が起こり、福島県出身の山口隆は故郷を想う行動や発言を重ねていく。曲は曲でそれぞれ独り歩きするが、この曲が示す別れは震災で突然起きた大勢の死や別れと重なっていく。作った時には想定もされていなかった様々な想いが複雑に絡みついていく。それは一体なんだろうか。曲が成長するということなのだろうか。もしそれが成長だったとしても、その複雑に絡み合った何かも、100年後に偶然流れたこの曲を聴いた人にとっては何の関係も無い、そんなこともあったらしいねとすら想起しない情報でしかないのだろう。

人は様々なことを考える。曲そのものに込められた何かとはまったく無関係のことまで勝手に考える。同時に、関係もあるし想像させるために散りばめている伏線のような言葉さえも無視して、作者の意図など無視して聴くことだって可能だし、時間の経過が当然思い起してしかるべきことさえ想起し得ないリスナーを生むし、本来なら想起して当然の人たちがただ忘却することで、想起できなくなってしまう状況にもなる。それは、風化だ。風化していいことと悪いことがあったとしても、現代の人に風化してはならぬと言い聞かせていい範囲はどこまでなのだろうか。第二次世界大戦の悲劇を風化させてはならない、明治維新のことを風化させてはならない、平安遷都の混乱を風化させてはならない、いったいどこまでが覚えておくべき、覚えていることが可能な過去なのだろうかといつも思う。9年前のあのことはどうなのだろうか。新型コロナウィルスの騒動で式典が中止されるという。そのことはどうなのだろうか。コロナウィルスの騒動がなく、式典が実施されたら人々はまたあの時のことを思い出すのだろうか。式典がなければ思い出せなくなってしまうのだろうか。その境界線が曖昧になった時、人々の中から何かが風化していくのではないだろうか。

(2020.3.11) (レビュアー:大島栄二)


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review, 大島栄二

Posted by musipl