<!-- グーグルアナリスティック用のタグ -->

土岐麻子『Black Savanna』
【捨て去ることで、永遠に手元から失われる何かというものは確かにある】

土岐麻子の新譜を聴いていて。ひっかかるのは「Cry For The Moon」という曲だった。人間生きているといろいろなものを所有していく。所有はそれ自体喜びだが、その喜びが増えていけば増えるほど自らを縛る。持つことによって狭くなる部屋。場所に根を下ろすように暮らせば馴染むし、馴染めば暮らしやすくもあるが、文字通り根をはやした暮らしからは自由度が失われていく。ある日突然何かの事情で転居することになるとしよう。その時に足枷になるのは荷物だ。ひとつひとつの荷物には想い出がある。日々ゴミを出す。ゴミが生まれるのが生活というものだ。そのゴミを出す過程ですり抜けて部屋の片隅に置かれ続けるのが荷物だとしたら、荷物とは記憶と愛着そのものである。記憶と愛着は心の中にこそあるのであり、舞台としての荷物はその記憶を時おり確認するための寄り代でしかない。だが、その寄り代が手元に無くなったとしたら、僕らはその記憶と愛着を再び思い出すことは出来るのだろうか。

そしてなにより、寄り代がないくらいで思い出せなくなるようなものを愛着の対象として位置づけるというのはどういうことなのだろうか。

増えていく荷物の中で厄介なのは本とレコード。本、あればまた読むことができるよ。でも、読んだことあるか。過去に読んだ文庫本で生涯に読み返したような本が何冊あるのか。本棚に並んでいるのは、もう一生涯読むことのない、過去の通過点でしかないのではないのか。
ずいぶん昔、応接間にあった文学全集。それはその家の知の象徴のようなものでもあった。それがあることでその家には知があるような気になれた。だが、今はどうだろう。単なるインテリアでしか、もっといえばインテリアにさえなっていないのではないだろうか。

本は、知である。知は人に自由をもたらす。だがその自由をもたらすはずの本が、実際には人々の自由を奪うのだとしたらどうだろうか。

「Cry For The Moon」という曲は読まない本と聴かないレコードを、食べかけたチョコレートバターと並列にする。衝撃だ。それらを次々と捨てる描写から始まる。だが大胆に捨て去って行くなかで、「すべてが終わってしまいそうで手放せない」と歌う。

捨て去ることで自由を得ることになるのは、きっと事実だ。本は図書館に行けば良い。レコードもほとんどの曲はSpotifyやAppleにある。スマホさえあればどこでだって聴ける。だけれども、小さなコンパクトディスクのケースに収められたものは単なる音ではないよ。それをケースごと捨て去ることで、永遠に手元から失われる何かというものは確かにあるのだ。それは古い文学全集に託した気分やノスタルジーでしかないのかもしれないけれど。

それでも、団捨離は必要なのだ。それによって生まれた小さな空間に、また新しい何かを置くために。

「Cry For The Moon」はMVがないので、新譜からのリード曲(多分)のこれを。気になる人は新譜を買ってください。

(2018.7.7) (レビュアー:大島栄二)


ARTIST INFOMATION →


review, 土岐麻子, 大島栄二

Posted by musipl