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33Insanity’sVertebra『my postmortem photography』【終わったものにすがらないでくれ】

これに違和感を感じるのはいったい何故だろうか。違和感といって単に切り捨てることが出来るダメ音楽ではまったくなく、世の中に氾濫しているどれもこれも同じにしか聴こえない音楽と違うという意味で、大勢の中での違和感は、結局は個性の迸りを強く感じているということの証である。実際にその時代を体験したわけじゃないのでなんともいえないが、シーナ&ロケッツが出てきた時にもこんな違和感はあったのではないだろうか。平穏無事な調和をあざ笑うかのような表現に、普通しか知らない人はただ驚き戸惑うばかりで。その驚きが100歩も200歩も先を行ってしまっていたらもう理解のとっかかりさえ見つけることはできないだろうが、10歩くらい先なのであればなんとか理解しようと思えばできないことは無い。シナロケの時代は世の中に登場する音楽のほとんどすべてがメジャーというフィルターを通していたので、リスナーはそこから何かを感じ取れなければ負けみたいな雰囲気もあったし、解ってなくても解ったフリをして成長を装うようなことも普通にあった。だが今のようにインディーズで淡々と活動する人たちとメジャーはほぼ同じ土俵に立ち、だから偶然に出会った「これ」を感じ取らなくても理解しなくても別に問題なくて、直感で理解できるものだけを受け入れ、そうでないものは「マニアックなもの」とでも言って切り捨てていけば済む。何を聴くかなんて個人の自由だし、理解しようなどとせずに切り捨てていきさえすれば良いのだが、それによって音楽を理解しようという努力が不要となり、結果的に理解力が向上したり、自分の受け入れられる音楽がとても狭くなったりして、それが個性的な表現が生まれる土壌を失わせていくという悪循環に陥っているのではないかなあと、ちょっと思う。

この不思議で発音の仕方さえよくわからないバンドの楽曲を聴いて、とりあえずはこの太いギターの音にだけ身を預けてもいいのではないかなあと思う。このギターは心地良い。その心地良さだけで何度もリピートして聴いて、リピートしているうちに慣れてしまえば、この音楽表現の良さに少しは近づくこともできるんじゃないかなあという気がする。個人的には「終わったものにすがらないでくれ」という歌詞がとても印象的で、その意味はいったい何なんだろうかということをもう少し考えてみたいのだ。

(2018.8.14) (レビュアー:大島栄二)


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review, 大島栄二

Posted by musipl