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ヨルシカ『パレード』【不安だけが増幅する装置がそこここに潜められているよう】

ふと出会うMVのサウンドが透明感あって、動画もイカしてて、いや、イカしてるというのはちょっと違うけど、けっして無視できないようなオーラを持ってて。ヨルシカというユニットなのかバンドなのかはよくわからないものの、n-bunaとsuisという二人のグループ。通常は2人のグループはユニットといってたけれど、HPによればバンドだということで。n-bunaという人はコンポーザーで、ボカロPとして2012年に活動を始めたらしい。こういうのを見るとボカロというものはテクノロジーを超えて文化を作っている、というよりもはや完全に作り替えたと言っても過言ではないと思われる。昨年暮れの紅白に米津玄師が生出演して、他にも提供曲を歌うアーチストが数組出てて、ある意味米津一色の様な様相を呈していたけれど、彼を先陣にというか、いや米津とか関係ないしというような人たちがやはりボカロで頭角をどんどん現してきて、でこの現状。テレビの音楽番組しかインプットの手段を知らない旧世代などを尻目に、地上波なんて見ないもんねという世代はボカロを普通に聴く。考えてみればルックス必須だった地上波の時代にはどんなに才能を持っていてもポップミュージックの世界で表に出てこられなかったような人たちが、歌声さえ持たずとも特化した才能だけで勝負できるのだから、すべて自分たちのオリジナリティといってそこそこのルックスや美声を持った4人ほどで創作活動をしてきたバンドたちが、楽曲のクオリティだけの土俵でボカロPになかなか勝てなくなるというのはある意味必然。まるで大相撲の世界でモンゴル人力士パワーが席巻してきたような感じで。この曲にはなんともいえない虚無感が感じられて、聴いていて心がゾワゾワさせられる。この感じはなんかで味わったなと、何だったろうそれはと考えてみて、結論としては初期のamazarashiだった。amazarashiも、出てきた当時ボカロPなんてものがそんなに大きな影響力を持ち得なかった中、バンドとして顔を見せないということをひとつの制約としていた。人気が出てきて初ライブをおこなった時にステージと客席の間には薄い幕が下りていて、客は直接彼らを見ることができなかったという。MVでもアニメを使って本人たちの顔が見えなかった。ヨルシカのMVも、HPに並んでいるアイコンを見る限りすべてアニメ。ボカロはアーチストのルックスも、存在そのものも不要としているのか。それがかえって作品性や才能そのものを強調すると信じられているのだろうか。その関係性が当たり前になった時にも、アーチストに対してダイレクトに触れられないベールのようなものはずっと必要であり続けるのだろうか。4月10日に発売されるという14曲入りのアルバムには、日付が含まれたタイトルを持つ曲が実に7曲もある。日付と曲順に関連性も無く、この曲順を眺めているだけでゾワゾワする気持ちはさらに膨らむし、アーチストの本質に対して迫ろうとするリスナーの気持ちを「跳ね退けてやるぞ」とでもいわんばかりの意志を感じる。この曲の静かなサウンドと優しい歌声でありながらもしっかりと鍵をかけてある心模様のような、不安だけが増幅する装置がそこここに潜められているようで落ち着かない。

(2019.4.9) (レビュアー:大島栄二)


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review, 大島栄二

Posted by musipl