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羊文学『人間だった』【人間で在ろうという強い意志であり、便利を諦めろという警告】

しばらく前のベストセラー『ホモ・デウス』で、ユバル・ノア・ハラリは人類は不可逆的に進化していると述べた。ホモサピエンスは他の類人猿とは違った進化を辿り、そして今がある。進化によって得た快楽を手放すことなどできず、進化はさらに進む以外にはありえないと。

人類という数万年単位の話はあまりピンとこないが、この数十年での発展ならわかりやすいのだろうか。音楽はレコードによってその場にいない人にも音楽を届けられるようになった。レコードは割れやすく傷つきやすく、再生するには静かな環境が必要だった。それがウォークマンの出現でどこにでも音楽を持ち出せるようになる。そしてCD、iPod。CDという物理メディアからmp3などのデータを購入するようになり、それが完成系かと思ってたら、データさえ所有しないストリーミング再生というものが出てくる。

遠くの人とやり取りをするのに手紙を書く。言語の発明、文字の発明、紙の発明。それを配達する仕組み。ペンフレンド募集というのが若者雑誌には必ずあった。見知らぬ人と知り合いたい。しかしインターネットやSNSの登場でそういう欲望は簡単に満たされるようになる。世界の情勢を知るのにもはや新聞もテレビも必要ない。

そこから、昔の不便な世界に戻れるのか。いや、無理だろう。

『ホモ・デウス』が示唆する未来は、自由主義を人類は放棄し、データ主義と呼ぶべき新たな価値観を「便利」のために選択するという。そこでは個々が独立した主体として存在することは叶わないそうだ。そんなの、イヤだと思うのは自由だが、それに抗するのはどうやら難しそうにみえる。今は当たり前の民主主義だって200年前には影も形もなかった。しかしそれが今は当たり前の社会の前提になっている。だとすれば、今は影も形もない新たな社会がやがて当たり前になることを誰が否定できようか。だからといって肯定するというのは、今当たり前に手にしている価値のすべてを放棄することに等しいことなのだけれども。

羊文学が歌う『人間だった』が示唆するものはとても興味深い。人は便利に自由になることで何かを失ってきたという。そのベクトルは人間がやがて神になろうとするもので、しかし落ちるという。

MVでは女性が左から右に走っていく様子がずっと映し出される。コートにマフラーを纏った状態からひとつひとつ服を脱ぎ捨てていく。iPodなのかスマホなのか、イヤホンを引きずって四角い機械が放り出される。最後にはシャツもスカートも脱ぎ捨てて限りなく人間という「動物」になっていく。これはおそらく、便利をすべて捨て去って人間に戻ろうという意志のようなものなのだろう。その意志は、人間で在ろうという強い意志ではあるが、同時に便利を諦めろという警告でもある。そんなことはできるのか。そうありたいと願うけれども、実際に目の前に自然の驚異を突きつけられた時に、人は何を選ぶのだろうか。それは未知のウィルスに晒されて生命の危機を感じた時の選択というレベルの話ではなく、ちょっとした便利のために個人情報をスマホの先にある何かに全部渡してしまうというレベルで、人は便利に抗えるのだろうか。そんなことをあらためて考えさせる曲だった。

(2020.4.18) (レビュアー:大島栄二)


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review, 大島栄二, 羊文学

Posted by musipl