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amazarashi『未来になれなかったあの夜に』【過去の延長線上にある今の自分として「ざまあみろ」を噛みしめる】

amazarashiの音楽はいつも横たわる問題とそれに対する諦めのような現状容認がある。一時期それとは違うフィールドに踏み出したかのように感じたこともあったが、今作では王道ともいえる悩みの中心に仁王立ちしているような趣がある。

表現者としてずっと活動してきた彼らの、表現者が時折立たされる分岐点のようなものが表現されている。MVではさらにわかりやすくバンドマンが期待と挫折と、決別と未練、そういった感情の渦巻きが描かれる。だがこれは表現者に限ったことではなく、すべての人生に存在する混沌なのではないだろうか。生きていて、生まれて最初に思いついたことを終生やり続けられる人は幸せだ。だがそんなに甘いものではなく、実力や運、勇気に環境などによって修正を余儀なくされる。そして今がある。今に至る道程が正しかったのか間違っていたのか。マークシート方式で答えが存在するわけも無く、もしかしたらあの時ああしていればという疑問は常に付きまとう。その過去への疑問はそのまま現時点への疑問にも成り代わる。しかし現時点を否定することは自分の過去を否定することそのものであり、人はなかなか自分を否定することなど出来ず、そのまま疑問を抱えたまま生き続けていくしか実際に方法は無い。

過去に同じ地点に立ち同じことをやっていたはずの仲間と散り散りに別れ、それぞれの人生を歩むのは当然で、時にふとそういう過去の仲間の現状を知る時、なぜお互いの道はこうも違ったのかという答の無い問いにぶち当たる。

□  手段は選ばない いや、選べなかったんだ

そう思えるのならある意味幸せで、選んでこなかった自分を責め始めると際限はない。amazarashiは音楽の世界で一定以上の成功を収めた。その彼らから発せられた歌詞。

□  そんな夜達に「ざまあみろ」って 今こそ僕が歌ってやるんだ

彼らは今自分たちの現状を成功と認識しているのだろうか。

人が選んだ人生。選べずに至っている人生。現在の人生の裏には、選ばなかったけれどもこうだったかもしれないという幻が必ずある。幻の人生に向かって現在から「ざまあみろ」と歌えるというのは本当に幸せなことなんだろうか。100%人生を設計することなど不可能で、だからいつ想定外の未来に突入するともしれない。想定外の良い未来もあれば想定外の混沌もある。どの立場からも「ざまあみろ」と叫ぶことは、次の瞬間に自分がそう叫ばれる可能性をも排除できないということだ。彼らの初期の名曲『無題』では、成功と転落を経験した画家の人生が描かれている。売れているという観点からいえば転落の人生でも、別の視点からは「正しかった」というシニカルなストーリー。amazarashiの哲学が現れている1曲で、その哲学から見たら、この「ざまあみろ」と叫んだ成功した「未来」が正しいものなのかどうかということを考えさせられる。MVでは音楽を諦めビジネスマンとしての生き方を選んだ元メンバーが、「成功」したかつての仲間のステージを眺めながら複雑な表情を見せる。秋田ひろむが呈した「ざまあみろ」は、ステージの上からの声なのか、それとも客席からの声なのか、考えれば考えるほどわからなくなるし、リスナーは自身の過去の延長線上にある今の自分として、その「ざまあみろ」を噛みしめるしかないのかもしれない。

(2019.11.30) (レビュアー:大島栄二)


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Posted by musipl