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Deep Sea Diving Club『あくまとおどる』【どちらか、ではなく、どちらも。組み合わせによって複層の景色を見せることを可能にしている】

音楽をサウンドやリズムの種類で分類するジャンルという指標は、とても便利なのだけれど、本当にそれを表現の分類として十分なものとしてていいのかという疑問は常にある。長渕剛と山下達郎を同じ音楽表現者として並列に置いていいのか。いや、違うだろう。言葉とその意味と姿勢に重点を置く表現と、音色やリズムといったサウンドそのものに重点を置く表現は、たまたま音楽という手法が同じなだけで、表現自体はまったく別の種類のものだ。だからそれらをまったく別のものとしてあらゆるミュージシャンを分類することは可能なのだろうか。というとそれも難しい。サウンドのみが重要なのであれば歌を載せる必要など無くてインストをやってればいいし、言葉のみが重要なのであれば詩を書いて朗読すればいいのだ。だが長渕も達郎も言葉を音に載せるという手法を使っている以上、それはインストミュージシャンでもなく詩人でもなく、やはり同じ土俵の上で戦っている人たちというべきなのかもしれない。

このバンドの曲を聴いて、緩急のある流れにある種の意志を感じる。だがイントロからAメロに至るゆったりとした空気に、とてつもないピースフルな何かを思わずにはいられない。それはBメロというかすでにサビというか、新しい展開の緊張感ある流れが始まっても、最初に感じたゆったりとした空気の強さが支配的で、そこにある意志の強さが前面に出てくることは無い。だが、何度も繰り返し聴いてみると、そこに込められた絶望のような現状肯定に気がつく。ゆったりとした空気は、絶望によって生み出された諦めのような感性そのものなのだ。

悪魔と踊る。なんと絶望的な時間だろう。日々に在る矛盾と悲劇。それは時として自分とは関係ない遠くの出来事に過ぎなくて、だから無視して生きることも可能だろうが、その悲劇が自分と隣り合わせであることに気がついてしまったら、どうすればいいのだろう。逃げることもできず、明日それが自分に降り掛かるという可能性に目を閉じて、何事も無かったかのように、そしてこれからも何事も無いと信じて、何かに目を瞑ってゆったりと生きていくしかないのかもしれない。

悪魔と踊る、ダンスウィズデビルズ。そんな言葉が優雅なサウンドと一緒に繰り返される。この曲で、彼らが示そうとしている現状の厳しさが存在していることはいうまでもない。だが同時にその厳しさから逃避することの尊さもまた重要なのだと、ゆったりとしたサウンドが主張しているように感じられてならない。どちらか、ではなく、どちらも。そしてそれはその組み合わせによって複層の景色を見せることを可能にしている、秀作だと思う。

(2020.3.12) (レビュアー:大島栄二)


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review, 大島栄二

Posted by musipl